琉球の非武装は定説だった

一応書いておくけれど、一昔前までそれが「定説」だったんですよね。


『大系 日本の歴史9 士農工商の世』(小学館 1988)には、

琉球は、沖縄史の黄金時代といわれる一五世紀後半の尚真の時代に、文化の発展の他方で武器を捨てており、鉄砲の前には手がでなかった。

と書いてある。それが『日本の歴史14 周縁から見た中世日本』(講談社 2001)になると、

だが、琉球と薩摩の軍事力の差は歴然としており、首里城はまもなく陥落した。

となる。


「非武装」から「軍事力の差」に変わったのはこの間ってことですよね。で、何があったかと言えば、講談社の参考文献に、上里隆史「琉球の火器について」『沖縄文化』91(2000年)がありますから、この影響もあるのでしょう(俺は読んでないけれど)。とらひこさんのことですね。


ちなみに、秀吉の「刀狩」についても学説が変化しているんですよね。そうなると、尚真王の「刀狩」についても見直す必要があるわけですね。

ただ、実際には、刀や脇差の上納と没収が名目上で展開されたのみで、祭祀に用いる武具や害獣駆除のための鉄砲などは所持を許可されるなど、刀狩の展開後も農村には大量の武器が存在したままだった。すなわち、秀吉の刀狩令によって惣村の完全なる武装解除が達成されたわけではない。また、刀狩の展開の多くは村請すなわち惣村の自検断権に基づいて実行されたケースが多い。
中世を通じて武器の所有は広く一般民衆にまで浸透しており、成人男性の帯刀は一般的であった。また、近隣間の些細なトラブルでさえ暴力によって解決 される傾向にあった、そのため、秀吉は刀狩と並行して武器の使用による紛争の解決を全国的に禁止(喧嘩停止令)し、この施策は江戸幕府にも継承された。
以上のことから、秀吉の刀狩令は百姓身分の武装解除を目指したものではなく、百姓身分から帯刀権を奪い、武器使用を規制するという兵農分離を目的としたものであったとする学説が現在では有力である。

刀狩(ウィキペディア)