武田信虎はなぜ追放されたのか?

信虎追放の原因には様々な説がある。

天文10年(1541年)6月14日、信虎は信濃から凱旋すると、娘婿の今川義元と会うために駿河に赴いた。しかし板垣信方甘利虎泰ら譜代家臣の支持を受けた晴信一派によって河内路を遮られ、駿河に追放された。信虎を追放した晴信は、武田家家督守護職を相続する。
事件の経過は『勝山記』『高白斎記』などに拠り、事件の背景には諸説ある。信虎が嫡男の晴信(信玄)を疎んじ次男の信繁を偏愛しており、ついには廃嫡を考えるようになったという親子不和説や、晴信と重臣、あるいは『甲陽軍鑑』に拠る今川義元との共謀説などがある。また、『勝山記』などによれば、信虎の治世は度重なる外征の軍資金確保のために農民や国人衆に重い負担を課し、怨嗟の声は甲斐国内に渦巻いており、信虎の追放は領民からも歓迎されたという。

武田信虎(ウィキペディア)


俺は俺で思いついたことがあるんで、ちょっと書いてみる。もちろんただの思いつきなんで、そこんとこよろしく。


信虎は暴君であったと伝えられている。「妊婦の腹を生きたまま裂く等の悪行」もあったという。これは大河ドラマの「山本勘助」でもやっていた。もちろん事実ではないだろう。だが、そう言われるのには理由があるのではないか?


というと、ありがちなのは、「信玄の家督相続を正当化するため云々」ということなんだろうけれど、そういうことではない。


じゃあどういうことかというと、信虎の属性から、信虎伝説が生まれたのだろうと思う。「妊婦の腹を生きたまま裂く」というのは古来、悪王に対して使われた常套文句で、殷の紂王が有名だ。紂王は周の武王に滅ぼされた。易姓革命だ。

天は己に成り代わって王朝に地上を治めさせるが、徳を失った現在の王朝に天が見切りをつけたとき、革命(天命を革(あらた)める)が起きるとされた。それを悟って、君主(天子、即ち天の子)が自ら位を譲るのを禅譲、武力によって追放されることを放伐といった。無論、神話の時代を除けば禅譲の事例は実力を背景とした形式的なものに過ぎない。

易姓革命(ウィキペディア)


徳を失った王朝に代わって新しい王朝が興るのである。これをあてはめれば、信虎は「徳を失った王」ということになる。これだけなら、やはり信玄の家督相続を正当化するために、信虎を「徳を失った王」にしたのだと考えることもできる。しかし、俺は実際に信虎が「徳を失った王」だったのだろうと思う。


信虎は暴虐であったと伝えられる。だが信虎が「徳を失った王」とされた本当の理由は、暴虐であったからではなく、別の理由だったのだろう。

天子の所業は自然現象に象られ、悪政を行えば、大火や水害、地震、彗星の飛来などをもたらし(→「災異説」)、善政を行えば、瑞獣の出現など様々な吉兆として現れるという。こういった主張は君主の暴政を抑止するために一定の効果があったと考えられる。

天人相関説(ウィキペディア)


天子に徳がないと天災が起きる。もちろんこれは非科学だが、そう信じられていた。逆に言えば、天災が起きれば、それは天子に徳がなかったからだということになる。


実は信虎の時代、甲斐の国は飢饉に見舞われていた(「信虎 飢饉」で検索すればたくさんヒットする)。飢饉の原因が信虎に徳がないせいだと考えるということは有り得るのではないか?


信虎追放の原因が「飢饉をかえりみず戦争に明け暮れた」とするものならたくさんある。確かに飢饉はある程度、善政によって防ぐことができるだろう。そう考えれば、これで間違いではない。だけど基本的には飢饉は天災だ。信虎が飢饉の原因だとするのには、政治的な要因だけではなく呪術的な要因が少なからずあったのだろうと思う(というか両者は不可分であったのだろう)。


現在でも、数年前天災が続いた時、某政治家が「今必要なのは政権交代ではないか」と発言したことが語り草になっているのだから。