下克上

近頃「日本史の常識が変わった」という話がよく目に入る。


鎌倉幕府の成立は1192年ではなかった」という話は既に何度も見たが、「慶安御触書偽書説」は新鮮だった。さらにはてなブックマークで知ったのだが、『「下剋上」は本当にあったのか』という本が先月出版されていて驚いた。


戦争の日本中世史: 「下剋上」は本当にあったのか (新潮選書)

戦争の日本中世史: 「下剋上」は本当にあったのか (新潮選書)


もっとも俺は日本史の素人であるからして興味の対象が偏っていて、そもそも「今までの日本史の常識」自体を漠然としか理解していない。「慶安御触書偽書説」に関しては今日初めて知ったようにも思うし、そういえばそんな話を前に聞いたようにも思うし、要するに関心が無かったのである。


ウィキペディアで「慶安御触書」を見ると、
慶安御触書 - Wikipedia
ちゃんと偽書説が載っている。つまり俺が知らなかっただけなのだ。


「下克上」についても、
下克上 - Wikipedia

このように、戦国期の流動的な権力状況の中心原理を、下克上ではなく、主君押込めによって捉え直す考えが次第に主流となっている。戦国大名による領国支配は決して専制的なものではなく、家臣団の衆議・意向を汲み取っていた。その観点からすると、戦国期の大名領国制は戦国大名と家臣団の協同連帯によって成立したと見ることもできる。家臣団の衆議・意向を無視あるいは軽視した主君は、廃位の憂き目に遭った。そして一方で、主君と家臣の家の上下関係は絶対であって、個人としての主君は廃位されても、一族においての主君の地位は維持された。

もっとも、室町時代守護大名のうち、戦国時代を経て安土桃山時代に近世大名として存続しえたのは、上杉家、結城家、京極家、和泉細川家、小笠原家、島津家、佐竹家、宗家の8家に過ぎない。守護以外の者が守護に取って代わって支配者となる現象は、戦国時代において頻発していたのも事実である。

ということが書いてある(こういうことを上記の本が主張しているのかは確かめなければならないが)。


ただ、俺が思うに、「下克上」の元祖は「日本国の大魔縁となり、皇を取って民とし民を皇となさん」という崇徳上皇の呪いである(史実ではないと思われるし「下克上」という言葉が使われているわけでもないけれど)。


日本史の事実としては、天皇の権力が衰退し、武家が権力を握ったということになり、崇徳上皇の呪いは成就したかにみえる。ただし、武家天皇の地位を奪うことはなかった。「民を皇となさん」は成立していないともいえる。


で、何が言いたいかというと、室町時代守護大名の大多数は没落し、あるいは滅亡した。しかし、それに取って代わったものが守護大名になったわけではないということだ。


斎藤道三美濃国の守護土岐氏に取って代わり戦国大名となった。しかし道三は守護になったわけではない。


織田信長尾張守護斯波氏の守護代の織田大和守家に仕える弾正忠家の出である。守護代織田氏は守護斯波氏を凌ぎ、さらに弾正忠家が頭角を現した。斯波義統は守護代織田信友に殺され、信長は義統の敵討ちの名目でもって守護代を滅ぼした。


しかしそれで信長が守護になったわけではない。信長に関して言えば、よく知られているように足利義昭が将軍に就任した際に副将軍か管領になることを要請したが辞退したという。信長が守護になりたいと要求すれば叶うのは容易かったはずである。すなわち守護になれなかったのではなくてならなかったのだ。


それはなぜかといえば、副将軍辞退の理由としてよくいわれる(俺は支持しないが)ように「天下の主になることを望んでいたので体制に組み込まれたくなかった」ということかもしれないけれど、他の戦国大名も守護になっていないことから考えて、戦国大名には守護職になる意欲がなかったということではないだろうか?


※ なおそこで、もう一つ考えなければならないのは、「守護職という職」に魅力を感じなかったとしても「守護職という名誉ある地位」に魅力を感じなかったのかということだ。これに対しては「戦国大名、殊に信長は合理主義なので虚飾を必要としなかった」という考えも出てこようが、しかし彼らは「官位」は持っているのである。信長は「上総介」を称していた。上総国の次官という意味(長官は親王)だ。もちろん実質的な意味はない。またこれは正式に任官されたのではなく自称だという(俺は納得していないけれど)。守護にはならないけれど官位は欲したということの意味はもっとよく考えてみるべきではないだろうか?


で、守護であろうがなかろうが、実質的にその地域を支配していることには違いないということは可能だ。それを仮に「王」と呼ぶなら、「王」が下位の者に倒されて、下位の者が新たな「王」になる。それが下克上だという理解になるだろう。しかし新たな「王」が、前の「王」が使っていた「称号」を使わないということは軽視してよい問題ではないのではないか?単にそれは「王」の称号が変わっただけ、という理解をしては事の本質を理解できないのではないかと俺は思うのである。


とすれば、

そのため、下克上を文字通りの意味ではないとして、鎌倉期から武家社会に見られた主君押込め慣行として理解する見解もある。例えば、武田晴信による父武田信虎の追放も、実際には家臣団による後押しがあってのものであり、主君押込めの一例とされている。必ずしも主君を討滅する必要はなく、目的が達成できれば主君を早期に隠居させ、嫡男が主君になるのを早めるだけでもよかったのである。

というように、甲斐国守護武田信虎が追放されて信玄が後任になるという話と、斉藤道三が守護土岐頼芸を追放するという話を同列に扱ってよいのかというのは大いに疑問に思うのである。