被害者救済が目的のはずなのに自分達が被害者に

ニセ科学批判」というのは、

「社会的な有害性を持った疑似科学」による被害の防止を目的とした活動である。

疑似科学 - Wikipedia
というのが現在の俺の理解です。


ニセ科学」の被害を受けるのは、科学的知識を持ち合わせていない一般人なわけですよね。であるならば「ニセ科学批判者」は彼らを救うことを目的として行動するものだと思うのであります。


ところが、俺の見るところ、被害者を救うはずのニセ科学批判者の自己認識が「我々は被害者である」というものになっているケースが多いように感じられるのであります。場合によっては、「正義のために戦っている我々がいかに無知蒙昧な輩から迫害を受けているか」ということを、声高に叫ぶことが目的になっているのではないかと思うことすらあります。本来は無知蒙昧な故にニセ科学に騙される人々を救うことが目的だったであろうはずなのに。



花王に救われた消費者庁と消費者委員会 - 松永和紀blog


消費者委員会というのは「科学者」の委員会じゃないのであります。科学者が科学の無知をさらけ出したらそれは問題だろうけれど、彼らは科学者じゃないのであります。科学的な意見だけが聞きたいのなら、科学者がそれをやればいいのであります。これは消費者側からの「貴重な御意見」なのであります。「ニセ科学批判者」にこういう感覚が抜けているのが非常に憂慮されるのです。


ニセ科学批判者」は「あきんど」の感覚を学ぶべきであります。商人はお客様の声を非常に大事にします。いかに素晴らしい商品を作ろうと買ってくれなければ意味がないからであります。それがいかに「良い商品」であっても、それを買わない客が愚かなのだと言っていては、溜飲は下がるかもしれないけれど、商売を続けることができなくなってしまうのであります。


「良い商品」が売れない理由として考えられるのは、一つにはそれが実は「良い商品」ではないというケースがあるでしょう。その場合は商品を改良するなり、きっぱりあきらめるなりする必要があります。


もう一つの可能性は、客がその商品の良さを理解していないというケースですが、それは客が悪いのではなく、理解させることができなかった商人の落度であると考え、いかにして商品の良さを知らしめるのか工夫するのが、商売で成功するコツでありましょう。


なぜ商品の良さが客にわからないのか、それを知るのは客に聞くのが一番でしょう。だから商人は客の声を大切にするのではないでしょうか?客に聞いてみたら、その商品に対してとんでもない偏見を持っていたとして、客に対してぶち切れるのは愚の骨頂であります。商人がやるべきことは、その偏見を解消して商品の良さを理解させることであります。自分では気付かなかった消費者の感覚を教えてくれたその客に感謝こそすれ、怒るのは全くの筋違いであります。



そういう感覚が「ニセ科学批判」に欠けていると思うのであります。自分は正しくて、それを理解しない奴は愚かだと思うのは本来の目的を見失っているのであります。しかも思うだけでなく、自分達を「迫害される者」であると認識して相手を激しく攻撃するようになれば、その先にあるのは大変醜悪なものであろうと思うのであります。