平将門の乱の歴史的意義は

俺は「承平天慶の乱」に詳しくない。だから、もっと調べてから書いたほうが本当はいいんだけれど、中々できないでいるんで、疑問に思っていることを書いちゃう。


詳しくないので、俺の認識自体が間違っているのかもしれないけれど、「承平天慶の乱」というのは、朝廷の権威が弱まり、地方勢力が台頭する先駆けとして捉えられているように思う。


この俺の認識自体が間違っていたら、こっから先は全く間抜けな話になっちゃう。定説としてはどうかは知らないけれど、そのように書いてあるところもあるから続ける。

[承平・天慶の乱の歴史的意義]
・2つの乱とも武士が鎮圧したことにより武士の実力が確認された。
・ともに律令国家への反抗であり政治闘争であった。
中央政府の威信は失墜し、その無力さが暴露された。

中学標準新演習 歴史Ⅰ 第1章 古代までの日本(注:PDF)

上の二つともかく、疑問に思うのは最後の中央政府の威信は失墜し、その無力さが暴露された」


「失墜」したということは、逆に言えば、それ以前には「威信」があったということになる。そこが疑問なんですよね。


もちろん日本古代が律令制国家だというのが定説だということは知ってるけど。しかし「理想と現実」ということでいえば、古代日本は徹底した中央集権国家だったといえるかどうかは怪しいところもあるんじゃないんですかね。


それに、もっと根本的なことを言えば、たとえ古代に強力な中央集権国家があったとしても、それよりも遥かに、現代日本の国家の方が、たとえ分権だ自治だといったところで強大だという見方だってできると思うわけです。何が言いたいのかといえば、時代や状況が異なるものを比較するときに単純な比較だと見誤ることもあるだろうということ。


で、本当に、承平・天慶の頃、中央政府の威信は失墜していたのかというのが俺の疑問に思うところ。見方によっては失墜していたといえるかもしれないけれど、別の見方をすれば、失墜どころか、この時代に一つのピークを迎えていたのではないかと考えられなくもないんじゃないかと。


将門がなぜ反乱したのかというと、中央の威信が失墜して地方が台頭してきたからではなくて、その逆に、中央が地方に介入する圧力が強まって、そのプレッシャーに耐えられなくて反旗を翻し、しかもあっさり鎮圧されてしまったのではないかということ。そして、ここにおいて中央の威信は絶頂期を迎え、日本が新たなステージに入ったってことじゃないのかと。


そういうことを常々思っているのだが、もちろん自信はない。