権門体制論についてド素人が考えてみる

ド素人の俺がよくわかっていないながらも、少し書いてみる。

ジョゼフ・ド・メストルが次のように述べるとき、彼は大部分の保守主義者の気持ちを代弁していた。「われわれが欲するのは反革命ではなくて、革命の反対物である」と。彼はむろん保守主義者が愛着する社会類型のことを言っていたのである。反革命的な社会を建設するということは、かなりの程度まで敵の性格 ― そしてたしかにその戦闘性 ― を引き継ぐことになろう。メストルにとってジャコバン派によって打ち立てられた革命社会の「反対物」というのは、ジャコバン主義が攻撃の的にした社会であるが、それは旧体制そのものというよりは ― このモデルは狭く限定されすぎている ― むしろ十三世紀に頂点に達した封建的中世社会を指していた。

(『保守主義 ― 夢と現実』ロバート・ニスベット 昭和堂

西欧の保守主義者の言う革命社会の「反対物」とは、人民主権を標榜する革命政府が倒した直近の王政のことではなかった。

十九世紀にイギリスとフランスにおける多くの人々の心を捉えることになる中世への憧れは、ドイツおよび東ヨーロッパでは十八世紀全体を通じてすでに広範にみられた。ドイツにはパリやロンドンのように、一国全体を知的に支配しうるような都市はひとつも存在しなかった。ドイツ、そして忘れてはならないことだが、イギリスおよびフランスの各地方をも捉えていた地方主義の精神においては、伝統主義はほとんど不可避のものであった。

簡単に言えば「中央集権」ではない社会ということだろうと思う。俺は実際の西欧の中世については詳しくないけれど、十九世紀の人々にとって「中世」とはそんな社会だったと考えられていたのだろう。


もちろん西欧と日本は同じではないけれど、やはり日本の中世もそのようなものだろうと思われる。つまり中央に巨大な権力機構が存在するような社会ではなかったということ。


それを踏まえて、黒田俊雄の「中世の国家と天皇」を読んでみると、

 国家体制としての権門体制を最も特徴づけるものは、まず前節に述べた王権であり、ついで国家自体の機構であるが、それは、一言にしていえば、きわめて弱体・形式的で、非集権的であったということができる。

(『黒田俊雄著作集 第一巻 権門体制論 )

と書いてある。


これは極めて重要な記述だと思うけれど、権門体制論についての説明であまり重視されているようにはみえない(俺の知識が貧弱なせいなのかもしれないが)。


こういったことは中世の歴史を研究している人にとっては常識の範疇なので、あえて重視することがないのかもしれないとも思う。けれど、俺のようなド素人なんかは、ついつい、古代から現代まで一貫した「国家」というものがあって、その中で支配機構が変化しただけ(朝廷が弱体化して武家が台頭したみたいな)であるような錯覚をしてしまいかねない。


また、「権門体制論」に対する批判として「東国国家論」というものがあるらしいが(俺はまだ具体的には知らないんだけれど)、東国に独自の国家があって、西日本を中心とする王朝国家があったという説明では、「日本列島に単一の国家はなかったけれど、二つの集権国家があった」みたいな感じで受け取れないこともない。しかし、中世の特色を踏まえればそういう話ではないのだろうとは思う。


権門体制 - Wikipedia
東国国家論 - Wikipedia