「日本国王」か「室町殿」か

昨日書いた記事の後半は琉球宛ての文書じゃなくて、『運歩色葉集』の解説だということなので、俺の完全な勘違い。あらためて読んでみれば、それに気づかなかった俺のド素人ぶりが恥ずかしい。


ただ、前半部分については、俺の無知のせいなんだろうけれど、ちょっと理解できていない。「りうきう国のよのぬし」に宛てた文書の差出人は「誰」なんだろう?「日本国王」だとばかり思っていたんだけれど、そうでなくて「公方」や「室町殿」なんだろうか?


「明の華夷秩序の枠外における通交」だとしたら、「公方」「室町殿」は天皇の臣下ってことになって「りうきう国のよのぬし」と対等な関係ではないように思う。


で、ウィキペディアの「日本国王」の項目を見てみたら、

義満の死後、4代将軍となった足利義持は明と断交するが、

日本国王 - Wikipedia
って書いてある。これは「足利義持」の項に書いてある、

1411年(応永18年)には朝貢形式に対して反発の声もあった日明貿易勘合貿易)の取り止めなどを行なった。

足利義持 - Wikipedia
のことを指すのだろうか。とすると、応永21年に義持は「日本国王」であったのだろうか?


ただ、

6代将軍足利義教が明との国交を再開。国王号も復活した。これに伴い、朝鮮からの来書にも将軍を日本国王と称したが、日本側では、「日本国源某」の称号を用いた。なお、この時「日本国王」という称号を巡って議論があり、満済管領細川持之を通じて「将軍は日本の覇王であり、国王の称号を用いて誰に憚るところがあるのか」と進言したと記している(『満済准后日記』永享6年6月15日条)。

日本国王 - Wikipedia
と書いてあるので、義持の時代にも「将軍は日本の覇王」という感じで琉球と交渉していたってことなのかとも思う。よくわからない。


ちなみに明との勘合貿易が復活したのは永享4年(1432)。応永21年の文書も永享8年の文書も様式が変わっていないってことは、明との関係は関係ないってことだろうか。


このへん、ちょっと後で調べてみたい。