正義の鉄槌についての斜め方向からの考察

「正義の鉄槌」についての批判を最近何度か見た。それについて批判者が意図していないであろう、また、それに反論する人も意識していないだろう斜め方向からの考察。というか「ネタ」。


掲示板にて。


新聞や雑誌、あるいはブログその他何でもいいけれど何かの記事がテーマとして取り上げられる。それを読んだ住人は「こいつ馬鹿じゃねーの」とか「これだからサヨ(ウヨ)は」とか「○○の質も落ちたな」とかさんざん批判する。


ところがしばらくして、「おまえら誤読してるんじゃね?これってそういう意味じゃなくて、これこれこういう意味でしょ」という書き込みがなされる。


それからしばらくは批判の傾向が変わらないんだけれど、また「これはこれこれこういう意味だよね」という書き込みがなされる。ただし、文面からは先の書き込みを見て影響されて書いたのか、独自にそう受け取ったのかは不明。


こうなってくると流れが変化する。次から次へと同様の書き込みが出てくる。中には「>>○○に同意」みたいな書き込みもあるけれど、自力で解釈したと受け取れるような書き込みもある。


それに対する反論もなされるが、どう見たって後の解釈の方が有利。そして流れは逆転する。


そして「これをどうやったらそんな解釈ができるんだよ」みたいな、先の解釈をしていた人達を馬鹿にする書き込みも増えてくる。


だけど、ついさっきまでは先の解釈一色だったのに、いきなり別の解釈をする人達ばかりが登場してくるなどということは有り得ないだろう。常識的に考えれば、既に新しい解釈がなされていているのを読んでいたと考えられる。もし、それがなかったらその人達も古い解釈で書き込んでいたという可能性は高いだろう。それにもかかわらず、自力で考えたかのように振舞う人は多い。評価されるべきは最初に新解釈を書き込んだ人なんだけれど、自力で解釈したと考える人にとっては、単に自分より早く書き込んだ人という程度の評価だったりして…


(以上は全て妄想であり実際に起きた出来事とは一切関係ありません)


で、何が言いたいかっていうと「正しいことを言う人」が「正しいこと」をかさに来て偉そうにしているのを見ると、偉いのはあなたではなくて、「正しいこと」もしくは「正しいことを最初に言った人」が偉いんじゃないの?と言いたくなる衝動が俺にはあるってこと。



(でも、書いている途中で気付いたんだけれど、これでは正しい解釈が出てきた後でも正しい解釈を受け入れない人に対して偉そうに説教することを批判するのは苦しいですね。議論の対象になっているのに近いのはこっちのケースだろうし…)