同性結婚と正義を考える(サンデル教授の講義から)その2

昨日の続き。本当は続かないはずだったんだけれど、この話は考えれば考えるほど奥が深い。

同性結婚を法律で認めるべきなのだろうか。もし認めるなら、同性結婚を促進することであり、否定すれば同性結婚を違法とすることになる。ならば、国は結婚に関与せず、中立的な立場をとってはどうか、という意見もでる。

JUSTICE 第12回(終)「同性結婚と正義を考える」「サンデル教授の正義」ハーバード大学:サンデル教授:白熱教室 | VISUALECTURE


そもそも、なぜ国は結婚に関与するのか?


俺は、それは国家が国民を管理するにあたって「家族」を基本に据えたからだと思う。少なくとも日本ではそうだろう。戦後、家制度は廃止されたけれども、「家族」は現在でも国家との関係において重要な意味を持っている(最近だと「子ども手当て」とか)。
家制度 - Wikipedia


それはそうなんだけれど、西洋においては、どうもそれだけじゃないようだ。と思うようになったのは、『現代社会学入門』(ロバート・ニスベット 講談社)に、

 ルターは、十六世紀に、結婚は教会に属する儀式ではなく、むしろ市民的な儀式であると宣言した。このとき彼は、不可避的に、キリスト教的な結婚の概念から、いくらかの神聖な性格を取り去ったのである。

と書いてあるのを読んだから。その後に、

それでも、依然として大多数のプロテスタントは、今日においてすら、結婚は単なる功利的関係でなく、むしろ神聖なものだというであろう。

と続くのだが、それはこの際置いといて、マルティン・ルターがそんなことを言っていたというのは初耳だったので大変驚いた。


マルティン・ルターは結婚についてどういう考えを持っていたのだろうか?


ウィキペディアには

カタリナ・フォン・ボラという元修道女と結婚したことでプロテスタント教会における教職者、牧師の結婚という伝統をつくったことでも知られる(なおプロテスタントでは万人祭司の強調から牧師は聖職者とは呼ばれない)。

マルティン・ルター - Wikipedia
とあるけれど、これではさっぱりわからない。


というわけで検索してみると、
近代社会と宗教改革 ―ルターの宗教改革とヨーロピアン・グローバリゼーション− 倉松功(注:PDF)
という論文がヒットした。ここに、

 要するにルターによれば、婚姻は、生命と身体が害されない権利や私有財産権と共に、キリスト教徒であれ、他の宗教に属する者であれ、神が被造物としての人間に賜物として与えているものである。それらは保持されねばならないものとして神が定め、設定した神の秩序で、モーセ十戒の後半によって、公権力によって保護され、自然法として守られねばならないものであった。また、その点において人々に奉仕し、人々の福祉を計る公権力の役割があり、人間の社会秩序が考えられていたのである。

と書いてある。


ルターによれば「婚姻」は公権力によって保護され、自然法として守られねばならないものなのだそうだ。これは日本人にはあまり馴染みの無い感覚ではないかと思うけれど、ハーヴァード大学のサンデル教授や生徒にとっては、直接的には知らなくても、馴染みのある感覚なのかもしれないなどと思ったりする。