同性結婚と正義を考える(サンデル教授の講義から)

JUSTICE 第12回(終)「同性結婚と正義を考える」「サンデル教授の正義」ハーバード大学:サンデル教授:白熱教室 | VISUALECTURE


同性結婚の問題に特に関心があるわけではないけれど、サンデル教授がこのテーマを扱っているので、俺も考えてみようということ。その際、今読んでいるところの『現代社会学入門』(ロバート・ニスベット 講談社)の「第三巻 社会的規範」から得たニワカ知識を用いてみようと思う。



「社会的規範」によると、規範の分類する方法は多数あるが、

もっとも基本的で適用範囲が広いのは、神聖な規範と、世間的・世俗的・功利的などと呼ばれる規範との、両者の違いから出発する分類である。

という。「神聖な規範は宗教の構成要素をなすことが特徴的」である。

 事物もしくは人間が、功利的なものの領域から神聖なものの領域へと移行するためには、たとえば、通過儀礼、洗礼、聖餐などの浄めの儀式が必要とされる。男性と女性が同居していても、結婚という通過儀礼、もしくは浄めの儀礼を行って神聖とされるまでは、せいぜいのところ功利的な結びつきとしてしか考えられない。つまり、欲望とか理性の問題としか考えられないのである。

基本的な社会的結合-両親と子ども、夫と妻、首長と家来などの間の結びつき-は、神聖なものと宣言されることにより、明らかに、もそおのおのが売り手と買い手の関係のように功利的なものとみなされていた場合には望むべくもないような、重要性と持続性とを与えられる。

これらの結びつきは、幼年期から老年にいたるまで、人間を護る主要な手段であった。そういうわけで、どこででも、神聖な規範は、共同体の結びつきと緊密な関係を持ってきたのである。


で、ここからが俺の考察。


同性結婚を認めて欲しいという欲求は、単に公的に認められて各種の優遇措置による経済的な利益を獲得したいという功利的なものではなくて、二人の関係を神聖なものにしたいという願いからくるのであろう。


神聖なものにするためには「通過儀礼」が必要とされる。結婚に必要な通過儀礼は一般には「結婚式」だと考えられている。結婚式は「宗教」と密接に関わっており、故に宗教が認めない結婚が成立するのは極めて困難であろう。


だが、個人の意思を尊重する現代では「宗教」の役割は小さくなっている。故に宗教による強制力も小さくなっている。故に結婚式の役割も昔ほど重要だというわけではない。すなわち、結婚における通過儀礼といえば今でも「結婚式」を連想するとはいえ、実質的な通過儀礼「婚姻届を役所に提出し受理されること」であると思われる。


婚姻届を提出すれば、男女の場合、無制限で受理されるかといえば、条件が全く無いわけではなく、未成年の結婚や近親婚の制限などがある。それらの制限は法律によって定められているものであり、法律を改正すれば認められるのであり、宗教の経典に書かれている禁忌を改正することに比べれば遥かに容易なことであると思われる。


従って同性婚を認めることは、法律を改正すれば可能であるということになる。同性婚どころか、可能性としては動物との結婚、あるいは人形や機械との結婚、非実在の二次元キャラとの結婚だって、法律で認められれば可能だろう。


しかしながらここに問題がある。同性婚を望む者は、結婚を望んでいるというよりは、正確には「神聖な結婚」を望んでいるのであろうということだ。現在は神聖な結婚として承認されるためには、「婚姻届の提出と受理」という通過儀礼が必要とされる。しかし、これが将来も神聖な結婚のための通過儀礼として機能するとは限らない。


市民の大多数が同性婚を認めない社会で無理にそれを認める法律改正がされた場合、「婚姻届の提出と受理」で認められた結婚が共同体内で神聖なものと認められなくなる可能性は充分にある。すなわち男女の結婚を含む全ての結婚が神聖なものと認められなくなるとか、「婚姻届の提出と受理」とは別のもの(例えば「出産」によって初めて神聖な結婚と認められるとか)が通過儀礼となってしまう可能性があるのではないかと思う。


したがって同性婚を望む人が、その目的を達成するためには、単に法律が改正されるだけでは真の目的が達成されたことにはならず、共同体内の人々がそれを「神聖なもの」と認めたときに達成されることになるのだろうと思う。