「保守とリベラル」という記事について

保守とリベラル

わたしはある主張や行動に対して合理性を求めて「なぜそうなのか」と聞くが、友人は主張や行動に対して端的に既存の慣行や規範や権力との整合性を求める。

おそらく、リベラルと保守の対立の根底にはこの態度のちがいがある。

特にこの部分は同意できる。


ただし、

わたしは、ものごとが個々人の欲求や目的に合理的に適っていることに心底安心する。

そして、互いの利害が対立するなら、それを明らかにしたうえで調整する(あるいはけんかする)というのが納得できる社会のありかただと思っている。

一方、友人が安心するのは、ものごとが、個々人の目的や利益などとは関係なく、現行の慣習や規範に一致していることなのだろう。

それが友人にとって社会や世界の調和した姿なのだろう。

には注意が必要だろう。


なぜなら、リベラルが「合理的」というとき、その「合理的」という判断の背景には単一の価値観が存在することが多々あるからである。リベラルが「互いの利害が対立している」とき「調整する」というと多様な価値観を認めているように感じられるが、そうではなく単一の価値観で見た時に
Aにとっては利益があるけれどBにとっては損失になるというようなときのことを指すことが多いのである。だからBが反対するのはAと比較した時に平等ではないからで、平等にすればBも賛成するのだ、それでもBが反対するとしたらBが合理的でないからだ。と考えがちなのである。つまり他人に気を使っているように見えて実は「独善的」なことが多いのだ。


一方、保守は慣習や規範を重視するのはその通りだが、慣習や規範というものは絶対的なものではなく歴史によって形成されたものである。したがってある集団における慣習や規範は、他の集団における慣習や規範ではない。異なる集団に属するAにとって良いことはBにとっても良いことだとは限らない。だから価値観の異なる集団に属する者にそれを強制することにはためらいを感じるし、AとBが平等になれば両者が満足するとも考えないのである。しかし同一の集団に属する(とみなす)者には多少の不満があっても我慢することを強いるということはあるだろう。


よってリベラルだろうが保守だろうが、(理由は異なるが)相手の意向を軽視して押し付ける人間はいるのであって、その強弱の違いはどっちに属するかによるものではないだろう。リベラルの場合はより純粋なリベラルが他人への(本人は他人にとって良かれと思ってる)強制への抵抗が少ないと思われ、保守の場合は自分が属する集団、家族・地域・学校・会社・国家・宗教・民族等のどれに最も重きを置いているかによるものと思われ、範囲が狭ければ「うちはうち、よそはよそ」と考えて他人に干渉する機会は減る。逆に最も重きを置く集団が「人類」ということになれば人類以外に人類はなく、よって単一の集団しか存在せず、これはもうリベラルとどこに違いがあるのかという話になってくると思われ。