×「読み物としては面白い」 ○「読み物としても面白くない」

日本・イスラエル比較文化研究(2)―日本列島は誰が創った?― 大 塚 清 恵(pdf)
日本・イスラエル比較文化研究(2) ―日本列島は誰が創った?―: Kagoshima University Repository
鹿児島大学准教授 大塚清恵さんの論文がキチガイじみていると話題に | ツンダオワタ情報
鹿児島大学准教授 大塚清恵さんの論文がキチガイじみていると話題に - ニュース速報 - READ2CH


この手の話があると必ずといって出てくるのが「読み物としては面白い」あるいは「読み物としては面白いのだけれども」という意見。


ここにもそういう意見が結構ある。
鹿児島大学准教授の書いた論文が電波な妄想垂れ流しでwikipedia出典な件 


だけど、この手の話をちょっとでも齧ったことのある人ならわかると思うけれど、この論文に書かれていることの大半は既にどこかで見た話。参考文献として掲げられている「トンデモ本」の要約であろう。それに少しだけ「思いつき」を加えたにすぎない。


だから、「読み物としても面白くない」


この手の「〜としては」という評価は「映画評論」や「グルメ本」や「旅行ガイドブック」などによく見かける表現であり、「相手を傷つけないための常套句」あり、要するに「評価できない」の婉曲表現である。なぜ、こんな表現をしなければならないのかといえば「何の取り得もないもの」も相手にしないと商売が成り立たないからである。


そういうものを見慣れているせいか、何の利害関係もない第三者であるにもかかわらず「読み物としては面白い」なんていう表現を濫用する人がいるが、使い方を考えた方がいい。無難な言い方だと思っているのかもしれないが、それは「読み物」(の書き手)に対しては実に失礼な話なのだ。


また、社交辞令でなく、本気で「読み物としては面白い」と思っているのだとすれば、(たとえその分野に無知だとしても)その人自身に疑似科学信奉者の素養があるのだと、俺は個人的には思ってる。


(「前衛的」だったり「不思議系」だったりすると、それだけで評価したりするのも同じ)



※ところで、俺は学術関係者じゃないけれど、これは論文とはとても呼べない代物だと思う。テーマがどうこうの話ではなく、論文としてはあまりにも稚拙であろう。「日ユ同祖論」に関する書籍を一冊も持っていない俺でも図書館に3日も通えば書けそうだ。マニアならばこれより遥かに中身の充実した「面白いもの」を短期間で書くことができる人もいるのではないか。


同じ准教授が書いた論文に、
グリーン・ツーリズムの教育的価値 : 「農」がニート青年を甦らせる: Kagoshima University Repository
というのがある。こちらはテーマとしてはまだまともっぽいけれど、全18ページの内、約6ページは『日本農業新聞』の記事の紹介だという代物だ。


これは既に指摘されていることだけれど、要は論文を書いたという実績作りなんじゃなかろうか?それにしても余りといえば余りな話だけれど。