日本の古代史って割とフリーダムだから

特に『日本書紀』の時代のことなんてほとんど他に史料がないんだから、もっと自由な発想で、いろんな可能性を論じてみればいいのにね。


学者の場合はあまりにもフリーダム過ぎると名声を失う恐れがあるかもしれないけれど、民間の研究者だったら、そこんとこは心配ないじゃん。というか、実際に奇妙な説ならいっぱいあるんだから、そんな心配しているようには見えないけれど、何というか、パターン化しちゃってる感じがするんですよね。「日ユ同祖論」なんかもそう。もっと他のアイデアはないのかと問い詰めたい。想像力が貧しいんじゃないか?


何でこうなのかと考えるに、まず考えられるのは、優秀な人間はこのような珍説・奇説に手を出さない。故に珍説・奇説の側には優秀でない人間が集まっているので、新しい発想が出てこないということがあるかもしれない。ただし、古代史に関して個人的に思うのは、その優秀なはずの学者も単に珍説・奇説に手を出さないだけであって、似たり寄ったりな感じがすること(もちろんそうでない人もいるけれど)。もっと、もっと、もっと、色々な可能性を検討するべきだと思うんですけどね。


(なんてことを書くと素人が偉そうにってことになるんだろうけど…)


あとは、やっぱり甘やかされているってのがあるんだと思う。正統な学問からは検討するまでもないことと無視される一方、そっち系の世界では逆にちやほやされる。そして、例の「話としては面白い」みたいな無責任な言説も百害あって一利なし。そういう主張は大抵「面白いですね」と言いながら、その先が何もないから。