短文では「わかったつもりになっている人」と見分けがつかない

みんな忙しいのでこんな同案多数の単なる天邪鬼は相手にしないだけです - 教えたり、教えられたり


まず言いたいのは「相手にしない」と書いているけれど、実際は相手にしているってことですね。忙しければ無視すればいいんじゃないですかね?相手にする以上はちゃんと批判するべきだってことですよ。


批判する人の脳内には立派な理論が組み立てられているかもしれませんけど、超能力者でもない限り相手の脳の中まで見ることはできないわけです。すると見た目では、わかった振りをしているだけの人が書いているものと、そうでない人が書いているものの見分けが付かないわけですよ。


見分けのつかないものを認めるべきか認めないべきかだと、俺は「認めない」という立場を取りますね。なぜなら「わかっているつもりになっている人」を認めたくないからです。それは短文だと見分けがつかないけれど、長文になれば「つもりの人」はボロが出ますからね。逆に言えば短文だと、誰でもボロを出さずに物を言うことができるわけですね。そういう人と同列にされたくないならば長文で書くべきですね。


(たとえば「民主党の経済政策が間違っていることは明らかだ」なんて批判があったとして、自分もそう考えていたとして、詳しくみると、その人の言っていることがすごいトンデモだったりするなんてことは日常的にあるわけですよ)


さて、

ありません。あなたのきわめて勝手な思い込みです。少なくとも私はそういうタイプの人間ではありません。

「ありません」とは、「ルール上可能であることをやって何が悪い」という人間ではありませんってことですかね?まあそれを公言する人もいるにはいるけれど、一般的にはマイナスイメージがあるので、そう言われれば多くの人は否定するでしょうね。俺はあなたのことを知らないので「ありません」って言われても、「あなたは自分のことをそう思っているんですね」という感想しか持てませんね。


それに、俺は元から批判者を「全てのケースでルール上可能であることをやって何が悪い」という思想を持っていると言っているわけじゃないんですね。批判者は警察や図書館の行動を批判しているんですからね。例外があることは既に書いてある。その例外はどういう理屈からくるのかという話。


逮捕された人は法律違反をしていないのに逮捕されたことを理由に警察や図書館を批判している人は実際にいますよね。しかし一方警察や図書館も法律違反をしているわけではない(あなたはそう考えてないのかもしれないけれど)。一人の人間の中で、そこのところをどう両立させているのか「良くわからない」というのが俺の書いた趣旨。批判しているわけじゃないですよ。「良くわからない」と言っているんですよ。「あってもいいんだけど」と書いたし。


「ルール上可能であることをやって何が悪い」というなら、逮捕された人は悪くない。逮捕した側も悪くない。悪いのはルールである、もしくは不幸な出来事であると考えるべきではないでしょうか。


一方、「ルール上可能であるからといっても何でもやっていいわけではない」というなら、逮捕した側に問題がある。しかし逮捕された側にも全く落ち度がなかったわけではないということになる。


「落ち度」はあったけれども、逮捕されるほどの「落ち度」ではなく誰でもやっているというのなら話はわかる。そういう趣旨の主張もある。しかし、そうは見えない主張も多いように俺には見える(脳内ではわかった上で言っているのかもしれないけれど)。


※ちなみに「落ち度」とは、公立図書館がしょぼいシステムを使用している可能性を想定せず、かつそれが攻撃と認識される可能性を想定してなかったということです。それは業界の常識では「ありえない」ことなのかもしれないけれども、常識外れのことは往々にして起こりえることではないでしょうか。


もし、岡崎図書館に悪意ある攻撃がなされたとしたら、たとえ図書館のシステムが貧弱だったとしても逮捕され有罪になったでしょう。それを批判する人はいないと思います(それとは別に図書館のシステムのしょぼさも批判されるだろうけど)。逮捕された人は、悪意ある攻撃をしたと「疑われた」わけですよね。疑われたけれど悪意があると認められなかったので「起訴猶予」(これはこれで問題あるけれど長くなるので略)になったわけですよね。そりゃ、しょぼいシステムはあるべきじゃなかったかもしれないけれど、明文化された義務があるわけじゃない。


あと、逮捕は容疑によって行われるものであって、結果として無実だったからといってルール違反になるわけじゃないですよね。故意じゃないとわかっていたのに逮捕したのならルール違反だけれど、そうじゃないですよね。これは一般常識だと思うので、まさか勘違いしてはいないと思うけれど。


あと「予見」だけれど、これは当然、法的な意味における「予見」であって、日常用語としての予見とはズレがあるだろうことも考えなければなりませんね。この件で予見が可能だったか不可能だったかは裁判すれば決着が付いただろうけれど、裁判にならなかったのだからどちらとも言えないでしょう。すなわち今後も同類の事件が起きる可能性は十分あるでしょうね。というかこの事件が知れわたったのを契機に「予見可能性」が認められる可能性もあるかもしれませんね。
不法行為 - Wikipedia


結局のところ、この事件で何かが変わるのかといえば、大きな変化は無いんじゃないかと思いますね(公立図書館に関しては何らかの対策が採られるかもしれないけれど、司法は変わらないんじゃないですかね。警察は反省しないし反省する必要も感じていないんじゃないですかね)。すなわち、また類似のことが起きる可能性は理屈の上はあるのではないかということ。ただし実際には滅多に起きることじゃない。だから過剰におびえる必要はない。万が一にもそういう目に遭いたくないというなら事前に通知するのが良いだろうってことなんじゃないですかね。