「ありえない」という「若者言葉」

「ありえない」という言葉について考えてみた。

ありえない(ありえねぇ)
そんなことが真実であるはずがない。自分がとても困った状況に陥ったときにも用いる。「今日、中国語の試験があったよ」「ありえねー」。この場合、中国語の試験があったはずはないという意味ではなく、自分が試験を受けなかったことで大いに困った状況に陥ったという意味である。単純に「ない」と表現することもある。

若者言葉 - Wikipedia


自分がこういう使い方したことがないし、こういう使い方を聞いた事もないので「大いに困った状況に陥った」がなぜ「ありえねー」になるのか、その過程がわからない。「試験を受けないという有り得べからざることをやってしまった」という意味なんだろうか?


それは置いといて「ありえない」の本来の意味は「あるはずがない」だ。だから「あるはずがない」ことに使うのが正しい使用法でしょう。


ところが若者に限らず「ありえない」という言葉を実際にあったことに適用する例は多い。それが気になっている。


直近では岡崎市立図書館の件で、あんな「仕様はありえない」というのを見た。「ありえないほどお粗末」という意味で使っているようにも思えるが、これはありえることであり、実際にあったわけだから、「ありえない」の正しい使用法だとは思えない。


「ありえないほど」を「ありえない」と省略したということかもしれないけれど、そう単純な話ではなく、本心から「ありえない」と言っているようにも見える。それでいて「ありえない」と言った人に「でも実際にあったでしょ」とツッコミを入れても「そんなことわかっている、馬鹿にするな、そういう意味のありえないではない」と反論されそうな予感。


それに関して連想するのが、正確には覚えていないけれど、ソ連だったかどこだったかで、「我が人民には無賃乗車をする人間がいるはずがない」とか「我が人民に物乞いなどいるはずがない」との理由で、軽犯罪者や物乞いを収容所送りにしたという話。(欠陥だらけの理論だが)理論上起こり得ない→理論上起こり得ないものは存在しない→存在しているように見えるものは実際は別のものである→奴等は反逆者なのだ→収容所に放り込め…みたいな理屈じゃなかったかと思う。


そんなわけで、「ありえない」の言葉の乱用は、わかった上で使っているのならいいじゃないかとは思うけれども、一方で、単なる「言葉の乱れ」以上の深刻な問題を含んでいる場合もあるんじゃないかとも思う。