歴史学と科学

「歴史は科学か」という話はわりと良く見かける。難しいことはわからないけれど、「歴史学は科学だ」という主張にも一理あると思う。


でも、歴史学が科学たりえるとしても、現実の歴史学が科学的であるかというと話は別。


歴史学って超ゆるくないか?」って思う今日この頃。


昨日書いた件でいえば、「豊臣秀吉の実父は早死にして母が再婚」「生活が苦しい」「秀吉は家を出た」たったこれだけの根拠しかなさそうなのに、秀吉は義父にいじめられていたと結論付けている。これが「科学的」と言えるんだろうか?しかも「生活が苦しい」というのも想像に過ぎない。


もし、これを歴史の問題としてではなくて、現代の問題として論じている人がいたら、大いに叩かれるに違いない。政治家の発言だったら失言として進退問題に発展するかもしれない。


そういう家庭環境の子どもが虐待にあう確率は高いのかもしれない(俺はよく知らないけれど)。たとえそうだとしても、そういう環境にある人物の中の一人がそうだったとするには、余程の高い確率でなくてはならない。6対4の確率で高いなんてのでは話にならない。8対2でも微妙。9対1位でやっと可能性が高いと言える程度じゃなかろうか。しかし実際は確率が高いとしても、両親が実の親の家庭より確率が高いという程度の話だと思う(これもちゃんと調べたわけじゃないけれど)。


(これって高度な知識がなけりゃおかしいとわからないという話じゃないですよね)


そして、そうして得られた結論である「秀吉は義父にいじめられていた」という話が一人歩きして、『太閤素性記』と「愛護の若」が似ているという別の説の根拠になる。そしてそれがまた別のところで別の説に採用されるなんてことも。


こんなことがあやゆるところにあるのかといえば、そんなことはないだろう。でも、俺が想像する科学とは程遠いものを立て続けに見るとそう感じてしまう。


そりゃ科学にだっておかしなことを言う学者はいるだろう。でも、そういうのは批判されたり、批判されないまでも無視されたりして淘汰されていくものじゃないだろうか。


ところが、歴史学では、昔ある学者が唱えたものが、大した根拠があるわけでもないのに、継承されていっているのではないかというケースが結構ある。長い期間で見ればいつかは淘汰されるのかもしれないけれど、その期間が長すぎやしないだろうか?


何でだろう?もしかしたら議論が足りないんじゃないだろうか?


歴史の中でも大いに議論されているものはある。第二次世界大戦中に関することなどはかなり議論されていると思われ(俺は詳しくないんだけれど)。だけど秀吉の出自に関することなどは、それに関心がある人は多いけれども、史料に当たって検証する人というのは限られるだろう。ただし限られるとはいってもかなりいるはずだ。しかしそういう人達の自己主張はあっても、議論があるのかといえば、それほど無いんじゃなかろうか?ネットを見る限りではそう感じられる。そんなわけで非常に狭い世界で怪しげな説が淘汰されずに流通しているということになっているんじゃなかろうか?なんてことを思ったりする。


歴史学者や歴史マニアの中には、大河ドラマなど歴史解釈を批判する人は多いけれど、その歴史学も実のところ似たようなのがいっぱいあると思う。