秀吉は義父にいじめられたのか

正確に言えば「『太閤素性記』における豊臣秀吉は子供の頃に義父から虐待を受けたのか」という問題。なぜ『太閤素性記』に限定するのかといえば、現実と物語世界を区別する必要があるから。


現実世界で考えるなら、虐待されたという証拠がないからといって虐待がなかったとは必ずしも言えないと考えるべきだろう。特に目の前に傷や痣のある子供がいて、虐待があったという証拠がないからといって放置するのは問題だろう。


だけど、それと物語は区別する必要がある。


現実世界では、「虐待の定義」さえはっきりしていれば、世の中の子供は「虐待されている子供」と「虐待されていない子供」に分けられる。観察者の立場からは「虐待されているかいないかわからない子供」もいるけれど、それは観察者がわからないだけで「虐待されているかいないかわからない子供」も「虐待されている」か「虐待されていない」かのどちらかに属している


一方、物語世界では「義父や義母に虐待される」というのは重要な物語要素として多くの物語に登場する。その要素が欠けているということはどういうことかというと、それが「空白」であるということだと俺は考える。


「空白」というのは、「虐待されているかもしれないし、されていないかもしれない」ということではない。そうではなくて物語世界の中に「義父や義母に虐待される」という観念が存在しないということ。その観念は物語の中で「義父にいじめられた」とか、「実の子のように可愛がった」という話があって初めて発生する。それがないということは、観念自体が存在しないのだと考えるべきだと思うのだ。


だから「義父にいじめられた」という記事がなかったからといって可愛がられたのだとか、逆に「義父に可愛がられた」という記事がないからといって虐待されたのだと判断すべきではないと思うのだ。


量子論シュレーディンガーの猫というのがある。
シュレーディンガーの猫 - Wikipedia
俺が正しく理解している自信はないんだけれど、箱の中の猫は、実験では死んでいる猫か生きている猫のどちらかであるに違いない。しかし、それは箱を実際に開けてみるまでは観察者にはわからない。


物語世界もそのようなものだろう。虐待についての記事が無い以上、虐待されているか、虐待されていないか分りようがないのだ。


現実世界では状況証拠から判断することもできるだろうけれど、物語世界を現実世界と同じように考えると、おかしなことになってしまうだろうと俺は考える。