物語の類似性

昨日書いた『太閤素性記』の類話(その1)で、『豊臣秀吉』(小和田哲男 中公新書)に書いてある

また、松田氏は、「若が絶望の目でうち眺めた琵琶の湖(近江)は、疲労のはての幼い秀吉が眺めたであろう浜名の湖(遠江)に通う」と指摘し、近江の琵琶湖と遠江浜名湖の場面設定のちがいはあるが、両者の漂浪については共通点がみられるとする。

を批判した。


そもそも、物語が類似しているというのは、「物語要素」が類似しているってことだと思うんですよね。


『物語要素事典』というサイトがあって、そこを見ると、たとえば【合言葉】の項目には「★1.合言葉で、味方であるか否かを確認する。」「★2.警察や探偵が、合言葉を用いて犯罪組織に潜入する。」みたいなのがあって、そういう要素が複数の物語に共通して見られるとき、そういうのを物語が類似していると言うんだと思うわけですよ。


で、『太閤素性記』には秀吉が浜名湖を眺めるなどという描写はないわけで、そりゃ名古屋から浜松まで行くときには途中に浜名湖があるんだから、「眺めたであろう」といえばその通りだろうとは思うけれど、そういう描写が無い以上、共通しているとはとても言えないだろうと思いますね。


(そもそも「湖を眺める」なんて物語要素があるんだろうかという疑問や、「愛護の若」に「若が絶望の目でうち眺めた琵琶の湖」という描写はどのように描かれているんだろうという疑問があるけれど)


物語に共通性があるというとき、それは雰囲気とかそんなんじゃなくて、具体的に示されていなければならないんじゃないでしょうかね。


で、俺が思うに、ある物語に「湖を眺めた」という描写があって、別の物語で「湖を眺めたであろう」という推測が成り立つ程度では共通しているとは思えない。それよりも「池を眺めた」とか「水溜りを眺めた」の方が共通していると思うし、「湯のみ茶碗の中のお湯を眺めた」の方が余程共通しているだろうと思うし、さらに「小池さんという人をじっと見つめた」ということでさえ、「湖を眺めたであろう」よりも共通しているだろうと思う。


あるいは、ある物語に「泣いた」という描写があって、別の物語に「赤い目をしていた」という具体的な描写があったとすれば、必ずしも泣いたから目が赤いとは限らないけれど共通している可能性があると思いますね。さらにある物語に「泣いた」という描写があって、別の物語に「夜更かしした」という描写があったとすると「目が赤くなる」という共通点がある可能性があると思いますね(もちろん、なんでもかんでもそうというわけじゃなくて前後にも共通点がある場合とかだけど)。


しかし、名古屋から浜松に行ったというだけでは「湖を眺めた」には結び付かない。湖を眺めたのだろうということを予想させる具体的な記述がなければならないでしょう。吉原に行ったとかいうのなら何をしにいったのか予想がつくけれど。もし秀吉が針ではなくて、釣竿を持っていたというのなら浜名湖で釣りした可能性があり「湖を眺めた」につながるかもしれない(かなり苦しいが)。


このように物語世界では現実世界では似ても似つかぬものが共通点であるかもしれない。逆に現実世界では似ているように思えることでも、共通しているとはいえないことがあると思うわけ。