少数の支持者しかいない政治的意見は過激?

多数派であることのリスクについて (内田樹の研究室)

私たちは「圧倒的多数が支持する政治的意見」は穏健で、「少数の支持者しかいない政治的意見」は過激であると考えがちだが、

そんな話は初耳だ。いや絶対に初耳だという自信はないが、少なくとも記憶としては全く頭に残ってない。大量のはてなブックマークの中でここに突っ込んでいる人がいないというのは、その人達にとってはそれが常識なんだろうか?


「過激な少数意見」というのはある。また「過激だから少数の支持しか得られない」というのもある。しかし、それと「少数意見は過激だ」というのでは全然違うでしょう。


しかし、まあ考えてみれば、それに該当するようなことはなくもない。どういうケースかというと「自分が正しいのに不当な理由によって迫害されている」と当人が考えているケースだ。


疑似科学陰謀論などのトンデモ系にはそれが多い。自分は迫害された被害者であり、悪と戦って勝たなければならないという使命感によって言論が過激化する。トンデモとはいえないようなリフレ派もそう(現在トンデモ化が著しいが)。相手が卑劣な手を使うなら(大抵が思い込みによるもの)、こちらも正当な手段だけではダメだみたいな感じで突っ走るみたいな。


だが、そういうケースもあるということであって、だからといって「少数意見は過激だ」ではない。


※ あと一応念のために言っておくけれど、この場合の「過激」というのは、言論のスタイルが過激だということであって、常識を覆すような斬新な主張や急進的な改革を求める主張などを「過激」と表現することもあるけれど、内田先生が言ってるのはそういう意味ではないでしょう。


そもそも一般的にそう考えられているとは思えないのに、そうだと決め付けて叩くというのは、いわゆる「藁人形論法」というやつでしょう。


もちろん世間では本当にそう考えられていて、俺の認識が間違っているのかもしれないという可能性もあるが、「少数意見 過激」で検索してもなかなかそういうのが見つけられないんですけどね。


※ まさかとは思うんだけれど、内田先生は本当に「過激」の意味を混同しているのかもしれない。たとえば内田先生が脱原発に賛成してるのを原発容認派が「過激ですね」と言ったのを、言論スタイルが過激だと言われたと受け取ったとか。いや、まさかとは思うんだが。