何度も引き合いに出すけれど超光速ニュートリノの話。アインシュタインの特殊相対性理論が覆るかもしれないということで、それに対して科学者が慎重になるのは当然の話だ。さらにむきになって否定しているかのように見える人もちらほら見かけるのだが、それは科学的態度を逸脱しているかもしれないが気持ちとしてはわかる。物理学の定説が覆るというのは大事件だ。
だけど歴史の定説などは、俺が考えるに物理の定説などより遥かに脆いものだ。もちろん人が天から降りてきたり、常識では考えられないほど長命な人がいたりするのが史実ではないというのは揺るがないだろうし、織田信長や徳川家康が実在しないなんてこともありえないだろうが、史料に乏しく現代人の推測が多く入っているものについてはその限りではない。
中には何でこんなのが今まで定説だったんだと驚くようなものもある。たとえば「琉球の非武装・刀狩」。
⇒尚真王の「刀狩」
⇒琉球の非武装は定説だった
俺はこれを定説が崩された後、それもブログ界で話題になってから知ったんで、後出しじゃんけんみたいになってしまうけれど、どうしてこれが定説として認められていたのかとあきれてしまう。根拠とされているものの一つである「百浦添欄干之銘」はどう読んだら琉球に「刀狩」があったとする証拠になるのか理解に苦しむのだ。しかし諸々の要素が集まって、琉球に刀狩があった、琉球は非武装だったということになってしまったのだろう。
この定説が崩れたのは論文を読んでいないので詳しくはないけれど、とらひこ先生が、琉球が武装していたという証拠史料を提示したからなのだろう。それが無ければ、たとえこの定説に疑問を持っていたとしても、その疑問が筋の通ったものであったとしても、もっともらしい理由により否定されてしまうことになったのだろう。一度出来上がってしまった定説は、それが危ういものであっても、少しでも肯定できる部分があれば崩すのは容易ではなく、逆に定説を疑うものは、それなりの根拠があっても簡単には受け入れられないということだろう。
その頑固さは、定説が崩れた現在でも琉球は非武装でなかったかもしれないが「刀狩」自体はあったのだとする人が存在することでもわかる。今となってはその根拠は非常に薄弱なものになってしまったにもかかわらず。
歴史の定説は物理の定説に比べれば脆いが物理の定説と同様に頑固なのだ。