ルイス・フロイスの『日本史』に、
その時、偶然にも、日本で最高の天文学者の一人で公家でありはなはだ高貴な在昌殿という人が居合わせた。
(『完訳フロイス日本史1』中公文庫)
とある。「在昌殿」は「アキマサドノ」のルビがある。「在昌殿」は勘解由小路在昌だと考えられている。
⇒勘解由小路在富 - Wikipedia
勘解由小路家廃絶のいきさつは大変興味を惹くもの(信長の「改暦」問題にも関わる)だが、それはともかく「在昌殿」だ。彼が自ら「在昌」と名乗ったのは確か(「マノエル在昌」と名乗ったという)だが、自分で「在昌殿」とは言わないはずで、周囲の者がそう呼んだということだろう(面と向かってそう呼んだのかはともかく)。
ところで『日本史』では、足利将軍のことを「クボウサマ」と呼んでいる。その他、毛利元就は「モウリドノ」、三好長慶は「ミヨシシュリダイブドノ」、松永久秀は「マツナガソウタイ」など。
ところが織田信長は「信長」と書いてある。
なお織田信忠は「ジョウノスケドノ」、信雄は「ゴホンジョ」、明智光秀は「明智」、柴田勝家は「柴田殿」だ。
前に書いたように日本人の書いた日記にも織田信長は「信長」と表記されているものがある。そこでもやっぱり信忠は「城介殿」だった。
なぜ信長は「信長」なのか?
俺はこれに関する解説を見たことがない。というか問題提起さえみたことがない。