諱を避ける(その2)

諱で人を呼ぶということはなかったという「常識」。その「常識」故に起きる困惑。

117 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/07/24(日) 09:40:56.28 id:dNZZMTow
前々からなぜか伊達政宗が大体「政宗」と諱呼び捨てにされがちだっていう話が出てたけども
毛利輝元も呼び捨てにされやすいのかな?

福岡県史の近世史料をぱらぱらめくっていたら、目についた

慶長九年(?)正月十九日 黒田如水から真鍋次太夫宛書状

能申聞候、去年鯨をハ心懸取申候哉、(略)
次従 輝 元 参候船屋形取集、舟二可仕候間、損候ハん様二仕可置候、
筑前方へも此通可申候、恐々謹言


年不明五月廿六日 黒田長政から大嶋又衛門・毛屋主水・庄半大夫宛印判状

一書申遣候、中村藤兵衛所(略)
又 輝 元 へ大角弐其地有之由二候、彼地奉行へははや福越より被申遣候間請取、(略)

と黒田親子にまったく関係ない別の書状で呼び捨てにされてるんですが……
ちなみに上の如水書状ではちゃんと長政を「筑前」と書いていますし、
下の長政の書状では「中村藤兵衛」や「福越(福原広俊)」と諱呼びはしていません
他に諱が出てくるのは身内を除けば、長政書状に「秀頼様」とあるのが散見できるくらいです
しかし、輝元は呼び捨てです

呼び捨てにされる毛利輝元 - 戦国ちょっといい話・悪い話まとめ

229 :人間七七四年:2010/01/25(月) 12:44:40 id:hlwI/94V
そういや天正19年の吉継から政宗への書状で
宛名が「政宗」って呼び捨てになってるのが二通くらいあるんだけど
官位とか地位が政宗より上ってこともないだろうし
政宗への敬称は秀吉で「との」、家康で「殿」、三成で「様」だった)
内容をちゃんと覚えてないんだが礼状?みたいだったので
実はすごくプライベートな書状だったんだろうか

宛名に諱呼び捨てって仲良くてもあまりやらないイメージがあったんだけど
実は結構よくやることなんだろうか・・・?

【敦賀城主】大谷吉継 2【刑部少輔】

また、「増喜」という名前にも疑問がある。伊集院家の通字は島津本宗家同様「忠」であるように思われる(忠棟の父は忠倉、祖父は忠朗、息子は前述の通り忠真)。が、「増喜」はこの通字をふんでいない。更に疑問に思われるのは、この名前自体、どうも出家名のようにも見えることである。この頃の「上井覚兼日記」では伊集院忠棟のことを「忠棟」と諱で呼び捨てしているのだが、その覚兼ですらこの増喜に対しては「御息増喜殿」等と敬称で書いているのも気に掛かる。

しいまんづ雑記旧録 こいつ誰やねん


結構これで悩んでいる人は多いみたい。


これってどういうことなんですかね?教えて本郷和人先生(別に他の人でもいいけれど)。


※ ちなみに10年くらい前のことで記憶が曖昧なんだけれど、某有名歴史学者の書いた本に、ある日記に某武将の諱が呼び捨てで書いてあって、日記の筆者が某武将を敵視していた云々とあったように思う。しかし、その時点で俺は日記に諱が呼び捨てで書いてあるものを他で見ていたし、某学者を信用してないからそれを疑ったなんてことがある。記憶違いかもしれないが)


(追加)
雑談・政宗の呼び方は - 戦国ちょっといい話・悪い話まとめ