⇒神話と伝説など - Living, Loving, Thinking
元記事の
⇒古代人は神話を信じたか - 恐妻家の献立表
については言及しようとは思ってたんだけれど、『パイドロス』が手元にないので先延ばししてきた。で、今も手元にないので勘違いしているところがあるかもしれないけれど…
神話を信じるといった場合の「信じる」とは何かというのは、いろいろ解釈ができてしまいそうなので、「神話で語られる現在では生じるはずがないと考えられる出来事や、神話に登場する現在では存在を確認できない生き物が過去に実在したと考えられるか?」という科学的な問いに変換してみる。
ソクラテスの答は、
いやたしかに、もしぼくが賢い人たちがしているように、そんな俗説は信じないと言えば、当節の風潮に合うことになるだろうね。
『歪められた日本神話』(荻野貞樹 PHP新書より孫引き)
だった。古代ギリシアのインテリ達は、それを信じていなかったことがわかる。ソクラテスも信じていなかっただろう。しかしソクラテスが他と違うのは、それが無益なことであり、暇人のやることだと考えていたことだ。
で、そこから先の、ではソクラテスは神話についてどう考えていたかという話は置いといて、この神話を合理的に解釈するという行為が有益なのかについて。
現在は消えているが、ウィキペディアの「宇宙人」の項目に、
映画『2001年宇宙の旅』において、原作者アーサー・C・クラークと監督スタンリー・キューブリックは当初、モノリスの主人である異星人を映画に登場させる事を考えており、上記の理由から地球のいかなる生物ともかけ離れた形態にしようと試みた。しかしいくら考えても、どうしても地球上の生物を連想させる物しか考案できず、結局異星人の登場を断念した、というエピソードがある。
という記述があった。
⇒宇宙人 - Wikipedia
「要出典」のタグが付けられて削除されているから事実ではないかもしれないけれど、それはともかく、架空の生物を創作しようとしても、無から作り出すことは不可能であり、何らかのモデルが必要になることだけは間違いなかろう。
神話に出てくる実在しそうもない生き物や神も、当然何らかの実在するものからイメージされたに違いない。出来事に関しても同様。
したがって、そのモデルになったものが何であるかを考察することは可能だし、全く無益だというわけでもないだろう。
けれども、それだけで神話を理解できるだろうか?俺には到底そうは思えない。
日本神話でも天岩戸伝説が日食のことだとか、ヤマタノオロチが山の描写だとか河川のことだとか、そんな説明をよく目にする。もしかしたらそれはある程度は当っているのかもしれない。だが、それが神話の本質なのだろうか?
映画に昆虫型エイリアンが登場するとして、エイリアンが昆虫の形をしているのは昆虫に対する恐怖の感情があるからということはあるだろうから、ある程度は解釈可能だろうが、昆虫についてのウンチクをいくら語ったところで、それで全てが解釈できるわけではない。
なんてことを前々から考えている。