擬人化

菊池誠氏がSF読者としてダメだと思ったことはある - 法華狼の日記


俺は昔『パラサイト・イブ』読んだことある。今は手元にない(はず)。探せばあるかも。最後の方がB級っぽくて少し萎えた(触手とか。別の意味では萎えたの逆だが)んだけれど、そこまでは非常に面白かった。


で、今まで知らなかったんだけれど、ミトコンドリアを擬人化して描いたかどうかというのが論争になっていたらしい。本当はリンク先まで読むべきなんだろうけれど、ちょっとこの論争が不思議なものに思える。


というのは、「擬人化」というのは、

[名](スル)人間でないものを人間に見立てて表現すること。「動物を―した童話」

ぎじんか【擬人化】の意味 - 国語辞書 - goo辞書
ということだ。人間(ホモ・サピエンス)に見立てるということだ。


ミトコンドリアを犬や猫に見立てるのは「擬人化」とは普通言わないでしょう。すると「想像上の(知的)生物」に見立てるのも「擬人化」ではない


というようなことを考えると、果たしてこの小説はミトコンドリアを「擬人化」しているといえるのかという話になるのではないか。


で、ちょうど今日
「哲学的ゾンビはいない派」への転向 - 「で、みちアキはどうするの?」

哲学的ゾンビというのは、ご存知の方は多いと思いますが、Wikipediaによると「物理的化学的電気的反応としては、普通の人間と全く同じであるが、意識(クオリア)を全く持っていない人間と定義される」というものです。外から見るかぎり普通の人間とまったく変わりなく見えるけど、ぼくたちの持っているような"この意識"がない。内的体験がない。そういうものです。

哲学的ゾンビを想像しにくい人は、石黒浩教授の作成された超リアルなアンドロイドを考えていただければいいと思います。あれは人間そっくりだけど、もちろん意識を持っていませんよね、アンドロイドだから。そうじゃなくて、バラしても人間そのものなんだけど、意識だけがない。そういうものを哲学的ゾンビと呼びます。

という記事を読んだんだけれど、そういうのを考え合わせると、何か論争に抜けているところがあるんじゃないかと感じるんですね。


とりあえず、これからリンク先見てみるけど。


(突き詰めれば「ミトコンドリアは意志を持っているか?」ってことになりますね。科学的な定義では持ってないということになるのかもしれないけれど、哲学的にそう言い切れるのかって話。そういえば『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』ってSF小説がありますね)


(これはおそらくミトコンドリア・イブと利己的遺伝子について、擬人化した説明を文字通りに受け取るという事例に、そうではないという(嘲笑を含んだ)批判が当時も今もよくされているので、それをそのまま『パラサイト・イヴ』にも適用しちゃったという話だろうと思いますね。「俺は知っている」という人が嵌まりやすい落とし穴でしょう)


(追記)

また、参考図書欄に竹内久美子の本を入れたことが誤解を読んだ。

1.【講演内容】3-4/45 -SFセミナー2001瀬名秀明講演録-
竹内久美子」を入れたから、あの人たちの逆鱗に触れちゃったってことでしょうね。(確かにやっちゃった観はあるけれど)その一点でしか見てないから、こういう批判をしてしまうのでしょう。

なぜ彼らはこれを許容できるのに、『パラサイト・イヴ』の怪物の描写には批判的なのだろう? 宇宙人を人間が演じているという段階で、すでに宇宙人を人間に引き寄せて考えている。それは彼らの嫌う「擬人化」と根本的に同じなのでは? ロボット研究者も「人間は人間以外の知性を理解することは不可能。

1.【講演内容】11/45 -SFセミナー2001瀬名秀明講演録-
全くその通りだと思う。わかってないのは菊池氏達の方で今もわかってないんではなかろうか。浅田彰も批判してたそうで、批判の詳細はわからないけれど、浅田氏はそういうことをわかっていなければならない人のように思うのだが。