将軍足利義教は八百長で決まったのか?(その10)

歴史学者の方々はどうか知らないが、クジを複数回引くと聞いて俺が思い浮かべるのは、漫画やアニメでおなじみのあのシーンだ。


初詣や夏祭りにグループで行った際におみくじを引く。
A「俺は小吉だった。B子ちゃんは?」
B子「私は大吉」
A「B子ちゃんすごいね。ところで主人公君はどうだった?見せてよ」
主人公が持ってるクジを奪って見ると「凶」。

主人公「ちくしょう、もう一回引いてやる!」→でも、また「凶」。

主人公「そんな馬鹿な!ええいもう一回」→またまた「凶」。

神主または神主の娘で主人公の同級生「おかしいな、ウチの神社では滅多に凶は出ないはずなのに」


みたいな。


俺が何を言いたいのかもうわかったと思う。


管領畠山満家は「凶」を引いてしまったのだ。


だが、管領はそれを受け入れられなかった。だから
「今のは予行演習。これが本番だ」
と二度目のクジを引いたのだ。


ところがまた「凶」を引いてしまったのだ。この驚愕すべき事態に管領は思った。
もう一回俺が引いてもまた「凶」が出るのではないか?
そこで管領は側に控えていた従者に命じた。
「今度はお前が引いてみろ」


しかし、結果はまたまた「凶」。管領はあきらめざるを得なかった。


建内記』に書かれているエピソードの「真意」はこういうことでしょう。


八幡神の神意は揺ぎなかった。それは間違いない。だが重要なのは、
「義円は凶である」「管領はそれを望んでいなかった」
ということだ。


これはそういう話でしょう。もちろん事実のはずがないが。


※ なお、札には封がしてあったので急遽あらたにクジを引くのは不可能だという反論があるかもしれないが、封をしたと書いてあるのは『満済准后日記』であり『建内記』には書いてないので、いったん取った札をまた箱の中に入れれば何度でもクジが引けるのである。


※ ちなみに、これを、義円の札は出るはずのない札だったのに出てしまった。つまり、本郷先生の言うような「八百長」とは真逆の「八百長」を仕組んだのに、奇跡が起きて義円が出たということにすれば話はもっと面白くなるが、それを示唆すものは無い。


(つづく)