部下思いの春日局

自分に仕える医師の母親が西本願寺にいると知った春日局が、自ら筆を執って良如に、「(部下を)母親に会わせ、西本願寺で奉公させてもらえたら大変ありがたい」と頼んでいる。

春日局、実は部下思い? 西本願寺で自筆の手紙発見 - 47NEWS(よんななニュース)

 京都橘大の田端泰子名誉教授(日本女性史)は「若い頃苦労を重ねたことから、春日局は人の痛みがわかる優しい人だったとされる。周囲への心配りにもたけた局の性格がよくわかる文面だ」と話している。

春日局 気遣いの就職依頼…西本願寺で書状発見 : ニュース : 関西発 : YOMIURI ONLINE(読売新聞)


そうだったのかもしれない。


でもへそ曲がりの俺は別のことも考えてしまう。


手紙の相手の良如の父は准如

慶長3年(1598年)8月18日に豊臣秀吉が没すると、慶長5年(1600年)9月15日の関ヶ原の戦いに勝利し、実権を握った徳川家康は戦に協力[4]した教如を宗主に再任させようと考える。しかし三河一向一揆で窮地に陥れられた経緯があり、重臣本多正信[5]の「本願寺の対立はこのままにしておき、徳川家は教如を支援して勢力を二分した方がよいのでは」との提案を採用し、本願寺の分立を企図する。

慶長7年(1602年)、教如に七条烏丸に四町四方の寺地を寄進され、東本願寺が分立する。このため准如が継承した七条堀川の本願寺は、西本願寺と呼ばれるようになる。本願寺の分立にともない、本願寺教団は東西に分裂する。

准如 - Wikipedia


徳川家康によって本願寺は分裂しその影響は幕末・明治にまで及ぶ。西本願寺は親豊臣で反徳川といわれる。


実はこの玄利という医師は母がいることを口実にして送り込まれたスパイじゃないの?なんてことを思ったり。
(そもそも母が西本願寺にいること自体が周到に計画されたことだったりして)


なんて陰謀論めいたことを考えてしまう。


あと「玄利」という医師が何者かということが気になる。他に情報は無いのだろうか。なぜ気になるかといえば春日局の父は斎藤利三であり、兄は利康・利宗。「利」が通字になってるわけで、ただの偶然?って思っちゃうのも仕方ないでしょう。



なお、この手紙の翌年の1641(寛永18)、家光より「東本願寺」に広大な土地が寄進されている。

寛永18年(1641年)、徳川家光から東本願寺に寄進される。

承応2年(1653年)、石川丈山によって書院式の回遊庭園として作庭される。

以後、近世・近代を通じて門首の隠退所や外賓の接遇所として用いられるなど、東本願寺飛地境内地として重要な機能を果たした。また、延宝6年(1678年)から宝暦4年(1754年)の間は、西隣に接して東本願寺の学寮(大谷大学の淵源)が置かれた。

渉成園 - Wikipedia