漢音原理主義か?

音読み - Wikipedia
からの引用。

呉音は仏教用語律令用語に使われ、日常語としても定着した。漢音はもっぱら儒学で用いられた。また、近代以降、西洋語を翻訳するのに作られた和製漢語にはもっぱら漢音が使用された。

近代以降は漢音が優勢だった。

なお、時代によって読み方の変遷した熟語もある。「停止」は江戸時代まで「チャウジ」(慣用音「チャウ」+呉音「シ」の濁音化)とよんできたが、明治時代の改革で「テイシ」(全て漢音)と読むようになった。「文書」は古くから呉音で「モンジョ」と読んでいた(「古文書」など)のが、漢音で「ブンショ」と読む(「公文書」など)ことが増えた。「大根」は、「つちおほね(土大根)」と言ったものが音読みで「ダイコン」と呼ばれるようになった。

「停止」は本来「チャウジ」だったのが明治になって「テイシ」になった。なぜ変えたのかと考えるに「テイシこそが本来の読み方だ」という考えがあったのではなかろうか?「原理主義」的な空気があったように思われる。


夏目漱石の『吾輩は猫である』で「捏造」に「てつぞう」とルビがふってあるという。これは果たして日本において長いこと使用された読み方であるのか、それとも明治の時代の空気によるものなのか?


※ そういえば伊藤ハクブンとか木戸コウインなんて読み方が流行していたし。なおこれを「有職読み」と呼ぶのは間違いである。未だにウィキペディアは訂正されてないが。