煬帝はなぜ「ようだい」なのか?(2)

あれから調べたこと。


煬帝は「ようだい」と読むのが一般的というネット情報があるけれど、近代デジタルライブラリーで「煬帝」を検索してみた限りでは「ようだい」「ようてい」は半々といったところ。少なくとも近代においては一般的だったとまでは言えず「ようだい」と読むケースもあるといったところ。


ただし、


と、桑原隲蔵(1871-1931)という学者が「ようてい」と読むべしと主張しているので、それによって「ようてい」と読むのが増えた可能性あり。江戸時代においてはどうだったかはわからない。


なお「古代我国に行はれし呉音の名残を存せる読方」とあるけれども、古代において「ようだい」と読まれたという証拠があるのかはわからない。ただし、

というツイートがあり、桓武以前には煬帝に限らず呉音で読んでいたという。煬帝が有名だったので呉音が残ったという可能性。


おそらくは「古代我国に行はれし呉音の名残を存せる読方」というのもそういう考え方なんだろう。


しかし、桓武以降に「ようだい」と読まれていた証拠が無いのであれば、もしかしたら鎌倉あるいは室町あるいは江戸時代にそう読まれるようになった可能性は否定できないのではなかろうか?だとしたら、

煬帝は統治者としては結果として国を滅ぼした失格者であったが、一面では隋代を代表する文人・詩人でもあった。治世中各地に巡幸した際などしばしば詩作を行なったといわれる。治世後半には自らの没落を予見したのか、寂寥感を湛える抒情詩を数多く残した。煬帝の作品は文学史上からも高い評価を受けている。

煬帝 - Wikipedia
ということで、ひょっとしたら室町時代あたりの文人・詩人がちょっと気取った呼び方として「ようだい」と読んだ可能性だってあるんじゃないのだろうか?