あれから調べたこと。
煬帝は「ようだい」と読むのが一般的というネット情報があるけれど、近代デジタルライブラリーで「煬帝」を検索してみた限りでは「ようだい」「ようてい」は半々といったところ。少なくとも近代においては一般的だったとまでは言えず「ようだい」と読むケースもあるといったところ。
ただし、
みつけた。「東洋史教授資料」に、「煬帝の読方」の項目あり(桑原隲蔵全集4、450頁):「ヤウテイと読むべし。ヤウダイといふは…古代我国に行はれし呉音の名残を存せる読方なるべけれど、今日に於て、殊に東洋史に在りては、漢音の儘に読みて差支なし。」
— つゆスープ (@lang0110) 2013, 4月 16
と、桑原隲蔵(1871-1931)という学者が「ようてい」と読むべしと主張しているので、それによって「ようてい」と読むのが増えた可能性あり。江戸時代においてはどうだったかはわからない。
なお「古代我国に行はれし呉音の名残を存せる読方」とあるけれども、古代において「ようだい」と読まれたという証拠があるのかはわからない。ただし、
漢籍は初め呉音で読まれ、桓武が詔して漢音に改めさせ、以来仏典以外は漢音で読む事になっている(桓武の詔勅を改める法令が無いため)。そのため「煬帝」を「ヨウダイ」と呉音で読んだのが先で、恐らく親父も「モンダイ」とか読まれていたかもしれない。
— 久野丹。 (@Cuno_vonTandel) 2013, 4月 16
というツイートがあり、桓武以前には煬帝に限らず呉音で読んでいたという。煬帝が有名だったので呉音が残ったという可能性。
おそらくは「古代我国に行はれし呉音の名残を存せる読方」というのもそういう考え方なんだろう。
しかし、桓武以降に「ようだい」と読まれていた証拠が無いのであれば、もしかしたら鎌倉あるいは室町あるいは江戸時代にそう読まれるようになった可能性は否定できないのではなかろうか?だとしたら、
煬帝は統治者としては結果として国を滅ぼした失格者であったが、一面では隋代を代表する文人・詩人でもあった。治世中各地に巡幸した際などしばしば詩作を行なったといわれる。治世後半には自らの没落を予見したのか、寂寥感を湛える抒情詩を数多く残した。煬帝の作品は文学史上からも高い評価を受けている。
⇒煬帝 - Wikipedia
ということで、ひょっとしたら室町時代あたりの文人・詩人がちょっと気取った呼び方として「ようだい」と読んだ可能性だってあるんじゃないのだろうか?