奈良の語源が朝鮮語だと主張したのは柳田國男の弟 (トンデモ発見編)

俺は「ナラ」は「ならす」の「なら」が語源という説を支持する。しかし朝鮮語説もネットで検索すると大いに叩かれているけれど、言うほどトンデモな説でもないと思う。他にも朝鮮語が起源だとされている地名はあるし。古代朝鮮語が不明だというけれど、それは史料が乏しいからであり、逆に言えば否定する史料も乏しいわけで、可能性としてはあるよねって話になると思う。


では、なぜ俺が「ならす」の「なら」説を支持するのかといえば、ちょっとしたトンデモ発見をしてしまったから。


それは平城天皇という追号についてのこと。

平城天皇(へいぜいてんのう、へいじょうてんのう、宝亀5年8月15日(774年9月25日) - 弘仁15年7月7日(824年8月5日))は第51代の天皇(在位:延暦25年3月17日(806年4月9日) - 大同4年4月1日(809年5月18日))。小殿(おて)親王、後に安殿親王(あてのみこ)。奈良帝(ならのみかど)とも呼ぶ。和風諡号は日本根子天推国高彦尊(やまとねこあめおしくにたかひこのみこと)。

平城天皇 - Wikipedia


「平城」は「へいぜい」と読むのか「へいじょう」と読むのかみたいな論争があるらしいけれど、それはとにかく「平城」は「なら」とも読むウィキペディアにあるように奈良帝とも呼ばれた。


追号とは、はてなキーワードでは、

1. もともと中国では帝王に生前の行いを評して付けられる称号。秦の始皇帝によって廃されるが秦の滅亡とともに復活。
2. 日本では和風謚号、漢風謚号を除く天皇の称号。現在一般的に用いられているものは平城帝(平城天皇)が初だが、謚号を持たない天皇嵯峨天皇が初。

と説明されている。
追号とは - はてなキーワード
ウィキペディアは引用省略。
諡 - Wikipedia


追号考」には、

 平城天皇(へいぜいてんのう 51代)は、譲位後に平城京を居所としたのでこの追号がある。嵯峨天皇(さがてんのう 52代)は嵯峨を居所としたが、これは天皇自ら命名した地名でもある。

追号考
とある。要するに、追号平城天皇が初であり、平城天皇平城京を居所としたのでこの追号があるということ。


ところで、「平城」は「なら」と読み、「なら」は「平ら」という意味だから、意訳すれば平城天皇「平らな天皇ということになる。


この平城天皇の後を継いだのが嵯峨天皇。父は桓武天皇平城天皇の弟。
嵯峨天皇 - Wikipedia


嵯峨天皇追号であり、譲位後に嵯峨を居所としたので嵯峨天皇と呼ばれる。上にあるとおり、「嵯峨」は天皇自ら命名した。


さて、「嵯峨」とはどういう意味であろうか?とウィキペディアを調べてみると、

地名の由来については坂あるいは険し(さがし)などの地形に由来するという説と中国西安長安)郊外の「巀〓山(さつがつさん)」を「嵯峨山」とも読んだからだという説がある。

嵯峨野 - Wikipedia
とある。


「嵯峨」は「さがし」であり、すなわち「険しい」という意味だという説がある。辞書にも

[ト・タル][文][形動タリ]山などの高く険しいさま。「―たる孤峰」

さが【嵯峨/険】の意味 - 国語辞書 - goo辞書
と書いてある。


ということは、嵯峨天皇は意訳すれば「険しい天皇ということになる。


すなわち平城天皇嵯峨天皇は「平らな」という意味と「険しい」という意味の追号を持つ兄弟ということになる。


これって偶然だろうか?


偶然でないとしたら、逆に「平城(なら)」は「平ら」、「嵯峨(さが)」は「険しい」が地名の由来であったか、少なくとも平安時代にはそのような認識があったということになるだろう。


というのが俺のトンデモ発見。


だけど余りにも単純なので既に誰かが唱えているかもしれない(見つけることはできなかったけれど)。


※なお、平城天皇嵯峨天皇の弟が淳和天皇である。「西院天皇ともいう。
淳和天皇 - Wikipedia


「西院」は「さいいん」と読む。「さい」と読むのは「道祖大路(さいおおじ)」と関係があるらしい。
東京から引っ越してきた人の作った京都小事典(後西天皇)


「賽の河原」や「賽の神」の「さい」とも関係があるだろう。とすれば「境界」を連想させる。