リバタリアンと児童虐待

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この論争はなかなか面白い。


論争の元となった蔵研也氏の提案の一つは要するに、逮捕覚悟で行動するNPOを作れってことですね。これは作ろうと思えば今すぐにでも作れる話ですよね。現行憲法でそれを阻止することはできないと思う(多分)。法改正も必要ないでしょう。実際にそんなNPOが作られる見込みがあるのかというのは疑問ですけど。


で、これがリバタリアン的でないという批判がある。国が主導して作れというのなら話は別だけど、個人が児童を救いたいという自由意志でもって、行動に伴うリスクを引き受けて行動することのどこがリバタリアン的でないのかちょっとわからない。


児童を救うべきであるという正義を他人に押し付けているわけじゃないですしね。それを妨害したい人はそうすればいいわけだし、勝手に家に上がりこまれた両親には抵抗する権利があるし。


で、これに対して、「子供(の親権)売買」という話が出ているけれど、俺が思うにこれは別の話ではないかと思う。蔵氏の主張は「児童を救いたいという感情に対するリバタリアン的処方箋」であって、後者は「児童を救うためのリバタリアン的処方箋」ということではなかろうか。もちろん後者で解決することができれば前者も解消するとはいえるかもしれないけれど。


児童を救いたいという感情は自然に起きるものであって、そこに理由とかは必要ない。何はともあれ児童を救いたい。そこで政府に頼らず自主的に行動するというのが前者。一方、後者の場合は、第一段階として、なぜ児童を救わなければならないのかという理由が必要になってくる話だと思う。


後者は明らかにリバタリアン的だと言えるのかもしれないけれど、前者もリバタリアン的と言えるんじゃなかろうかと個人的に思うけれど、そうじゃないのだろうか。リバタリアンにもいろいろあるから、違う思想に分類されるものなんだろうか。


あと「警察の分割、さらには民営化」についても考えてみたいけれど、それはまた。