荻生徂徠の思想と「大都会岡山」

徂徠『政談』を読む(2):海神日和:So-netブログ

 そこで徂徠が考えたのは、江戸の人口を減らすことです。江戸の人口は、関八州(現在の地方)で生産される米穀の余剰で暮らしていける人数に限定します。こうして江戸の人口枠が決まると、それを超す人数は「人返し」によって元の出身地に返してしまいます。

俺は荻生徂徠について「名前だけ知っている」程度なので、そんなことを考えてたんだと非常にためになった。


さて、この記事を読んだ瞬間に頭に浮かんだのは「大都会岡山」のことだ。

城下町としての岡山は発展を続け、池田氏第四代の綱政の代である1707年(宝永4年)には町方人口が3万0635人(武家・寺社方を含めた総人口は推定4万 - 5万人)に達し、国内でも十指に入る経済力を持つ城下町となった。後楽園が造成されたのもこの時期である。しかるに町方人口は享保の頃から暫減し、幕末の1858年(安政5年)には2万0092人となる。これは岡山藩の新田開発による農村商業の発達とは対照的であり、藩当局が農村から都市への人口流入を抑制する政策をとったことによるものとみられる。

実は岡山藩は規模の割に都市人口が少なかったのだ。自然にそうなったのではなく「都市への人口流入を抑制する政策をとった」ことによると考えられている。


都市人口のピークは1707年頃で享保(1716-1735)頃から減少したという。荻生徂徠は寛文6(1666)年生まれで享保13(1728年)没だから徂徠の思想が影響しているのだろうか?などと思ってしまう。


しかし、「荻生徂徠 岡山藩」検索すると『常山紀談』で有名な湯浅常山が徂徠の孫弟子だったみたいだけれど強い影響力があったとは思えない。他にめぼしいものも見当たらない。直接的な関係はなさそう。


岡山藩の藩政に多大な影響を与えたのは池田光政熊沢蕃山であろう。光政の時期は都市人口が増加していたと思われるが、全体の人口が増加していたと思われるから増加率が気になるところ。光正は(異様なほどに)農業中心主義であったから、この頃から都市人口抑制の考えがあったかもしれない。


池田光政・熊沢蕃山と荻生徂徠の共通点といえば、どちらも「反朱子学」の立場であったということか。それと都市人口抑制に関係があるのかわからないけれど。


ちょっと調べてみたくなったけれど、今は他のこと調べてるから無理。