お国のために命を捨てる

国を守るのは自分の権利を守るためであって、その逆ではない。佐伯啓思氏はこれを「お国のために命を捨てる」という日本的な家父長主義と混同しているが、両者は対極にある。

激しく違和感を持つ。いや、俺もこれに関してそんなに詳しいわけじゃないんだけどさ、


まず、佐伯啓思氏が何をいっているのかというと

 しかし行き過ぎた生命至上主義は戦後「平和主義」を掲げた日本に独特のもので、西洋にはない。西洋の多くの国では、憲法で「祖国の防衛は市民の義務」と謳われている。社会契約論を唱えたルソーも、「市民は祖国のために死ぬべきだ」と述べている。主権が王にあれば、王が臣民の生命・財産を守るが、主権が国民にあるなら国民が自ら守るという当たり前の理由からだ。

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と言っている。日本にも戦前「お国のために命を捨てる」という思想があったと佐伯氏は考えているのだろう。「日本的な家父長主義」とは書いてないが、池田氏はそこから派生した思想だと考えているのだろう。


しかし、日本に「お国のために命を捨てる」という思想がいつから存在したかと考えるに、果たして江戸時代にそんな思想があっただろうかと疑問に思う。


「主君のために命を捨てる」という思想は江戸時代にはあった。戦国時代にあったかというと、それが「美徳」と考えられていたということがないこともないとは思うが、現実に実行されることは稀なことだったと思われる。そしてそれが何のためにあったのかといえば表向きは儒教道徳かもしれないが、本質は「ご恩と奉公」によるものであろう。すなわち主君のために命を捧げるという行為に対し主君は報いなければならないという暗黙の了解があり、死んだ者の一族が厚遇されるということがあったから、武士は命を捨てたのだろう。「御家のために」も同様であって、本来主従関係は一代限りであるものを拡大したものだろう。


「お国のために命を捨てる」なんて思想は、確かめたわけではないが幕末頃から発生したのではあるまいか?それはいかにして生まれたのか?「主君のために命を捨てる」が発展したかのようであるし、実際そういった点もあるかもしれないが、俺はこれは西洋から輸入されたものではないかと思う。


そう、ちょうど今やっている大河ドラマ「花燃ゆ」の第一回で、「ナポレオンと豊臣秀吉が戦かったらどっちが勝ったか」というセリフがあったように幕末には西洋の思想が盛んに研究されていた。その過程で日本に取り入れられたのではあるまいか?だとしたら、この思想が日本古来のものだと考えるのは、いわゆる「創られた伝統」ではなかろうか?


さて、フランスである。フランス革命に多大な影響を与えた一人がルソーだ。

ルソーは、人は自由なものとして生まれたにもかかわらず、いたるところで鎖につながれている、と力強く宣言し、未来の革命家と改革者にこの鉄鎖の打破を訴えると同時に、それよりも精緻だが、それよりも強力な別の主張をも展開した。真の自由は、個人の自我と、もろもろの権利を含む全所有物を絶対的共同体へ全面的に譲渡することにあるという主張である。これこそ、ルソーからレーニンに至る本質的に集団主義的 ― あるいは共同体的 ― な真の自由についての解釈であった。
保守主義 ― 夢と現実』(ロバート・ニスベット著 昭和堂

つまるところ「個人=(国民)国家」なのであって、この思想によれば、池田氏のいう「国を守るのは自分の権利を守るため」というのはは同義反復である


よって「お国のために命を捨てる」は少なくとも西洋思想にも存在し、戦前の日本にあった「お国のために命を捨てる」と別物ではないという点で池田氏は間違っていると俺は思う。ただし、それが「日本の精神的伝統のなかにあった」とする佐伯氏の主張も大いに疑問に思う。



※ところで「佐伯啓思」で検索すると「佐伯啓思氏は保守主義の論客」なんて紹介されているわけだが、そういう人がなぜルソーの思想を肯定的に紹介するのか不可解ではある。日本の伝統にあったから保守だということなんだろうけど…(いわゆる「なんちゃって保守」の人?)