「許す」と「赦す」(その2)

「許す」と「赦す」の件(みんな間違っている) - アスペ日記

ですので、読売新聞の間違いは「すべては許される」と訳した段階ではなく、その訳文からニュアンスを推測したという段階です。

原文の表現について何かを言うためには原語の知識が必要だという、ごく当たり前のことです。*2


そうだろうか?「pardonné」とは「(罪を)ゆるす」という意味。読売記事が「その訳文からニュアンスを推測したという段階」とは

ムハンマドの風刺も「表現の自由」の枠内との見解を訴えたとみられる。

の部分。ここを関口涼子氏は、読売の記者は「pardonné」ではなくて「Permis」(許可)の意味で訳した考えているのでしょう。


しかし、そもそも読売記者は「許される」と書いてあるのを「許可」と誤解したのではない。これではフランス語を理解しているであろう読売記者が「pardonné」を「許可」と理解したということになってしまうではないか。実に不可解といわなければなるまい。


さて、読売記者が「(罪を)ゆるす」という意味だと正しく理解した上で「すべては許される」と訳し、『ムハンマドの風刺も「表現の自由」の枠内との見解を訴えたとみられる』と推測したということは、ありえないことであろうか?


否、十分ありえることである。実のところtakeda25氏も

しかし、pardonnéだからといって、“ムハンマドの風刺も「表現の自由」の枠内との見解を訴えたとみられる。” とは決して言えないかというと、そこは微妙なところだと思います。

と「微妙なところ」としながら、そう書いている。しかし、まさに読売記者はそのつもりで書いていると考えるのがもっとも筋が通っている。


つまり多くの人が読売記事を誤読しているのだ。


だが、なぜ誤読しているか?それは「表現の自由」と「許される」を結びつけたときに「許可される」という意味で理解してしまう人が少なからずいるからであろう(あと関口氏の記事を見たあとに読売記事を見ることで、色眼鏡で見てしまったということもあるだろうが)。


しかし、そもそも「表現の自由」は許可されるものではない


これは民主主義の根幹にかかわることである(そしてこの事件の根幹にもかかわる)。


我々は表現の自由などの権利を権力者から与えられているのではない。生まれながらに所有しているのである。これが「自然権」の考え。
自然権 - Wikipedia



決して政府その他が「許可」したから、その権利を保有するものではないのである。権力は「表現の自由」を許可しなければならないのではなくて、その権利を侵害してはならないのである。


したがって「すべては許される」とは、その生まれながら持っている権利を侵すことができないということになるでしょう。すなわち一般的に使用されるところの「表現の自由が許されている」というのも、実は「許す」と「赦す」を使いわけるのならば、表現の自由が赦されている(罪に問われない。罰せられない)」となるでしょう。「表現の自由が許可されている」ではないのである。


よって読売記事の『ムハンマドの風刺も「表現の自由」の枠内』というのも、ムハンマドの風刺も「罰してはならない、罰せられない固有の権利の枠内」という意味になると思いますね。