「自己責任論」はなぜこんなにも混乱しているのか?(その2)

自己責任とは「自分の行動の責任は自分にある」ということだ。


たとえば自己の判断で株式投資をして損しても、その責任は自分にあるのであって、他人にあるのではないということだ。


ところで、この場合に損するのは本人である。他人には一切迷惑をかけていないのだ。自己完結しているのだ。だから他人にとやかく言われるいわれはないのだ。


他人に文句を言っていないのに、他人から「自己責任」だと何で言われなければならないのだ?そんなことはわかっているのだ。だから他人に文句を言っていないのだ。それなのに「自己責任」だと言われるのは良い悪い以前に意味不明なのだ


だが、逆に言えば自己で完結しないで他者に責任を負わせようとすれば「自己責任」を論じなければならなくなる


たとえば俺が横断歩道が青になったので左右を確認して渡ろうとしたら、車がいきなり発進して衝突してケガをしたとする。これだって「自己責任」である。もし俺がゴルゴ13並の危険察知能力と反射神経を持っていればケガしなかったかもしれないのだ。またそのような超人的能力を持っていないから横断歩道を渡らないという選択も可能だったのだ。しかし俺の選択した行動により俺がケガをしたのであってそれで自己完結している。だから自分で自分を責めることはあっても他人からとやかく言われるいわれはないのだ。


さて、俺がケガをしたのは俺の行動によるものだとしても、当然のことながら俺をひいた車の運転手に治療費等を請求することはできる。この場合過失割合が争われる。すなわちこの事故における俺の自己責任が問われるのである。なぜなら他人の責任を追及したからだ。もちろん青信号で左右確認して渡った俺に責任は無くて運転手側に全面的な責任があるという結論になるであろうが、それは結果であって自己責任が問われることになるのは間違いない。


さらに、俺が「ケガをしたのはそもそも車という人を傷つける凶器を許している政府の責任だ」と追及したとする。そんなことを主張したら、いくら俺が車の犠牲者だとしても批判が出てくる。当たり前だろう。車は現代社会にとって必需品だからだ。それによって命を救われる人だっているのだ。「そんなに事故に遭いたくなければ横断歩道を渡るな、そもそも外出なんてするな」という批判が出てくるだろう。それは不当なものだろうか?


要するに、自己完結している場合には他人から自己責任についてとやかく言われるいわれはない。だが他者の責任を追及するのなら自己責任も追及される。その場合に責任追及が妥当なものだと判断されれば、ことさらに自己責任だと言われることはないし、言う人がいれば批判されるだろう。だが理不尽な責任追及だと判断されれば「自己責任だ」という声が大きくなる。


もちろんどこまで追求すれば理不尽だと判断されるのかは人によって異なる。よって同じ件に関して、ある人は「自己責任だ」と主張し、ある人は「自己責任だというのは不当だ」と主張することになり意見が対立する。しかし、それは他者への理不尽な責任追求か否かという問題であって、自己責任を問題にすること自体が間違っているということではないはずだ。


なお、本人は他者の責任を追及していないのにもかかわらず、第三者が他者の責任を追及するというパターンもある。その場合も「自己責任」が問われることになるが、それがいくら理不尽な他者への責任追及であっても、それを本人に向けるのは間違っている。理不尽な他者への責任追及をしているのは第三者であって批判はそちらに向けられるべきことだ。


ところがさらにここで話をややこしくしているのが、三者に向けられた批判であるにもかかわらず、その第三者が自分に向けられた批判を「被害者本人に対する批判」と意味を摩り替えることにより、批判者を「被害者を攻撃する悪人」に仕立て上げることである。全く悪質極まりない。