日本の幽霊の手 反魂香(その2)

反魂香について考えていたら新たな疑問が浮かんだ。

反魂香によって現れる死者の姿は幽霊と言えるのだろうか?


これは「幽霊」とは何かという定義にもよる。ウィキペディアによれば

死んだ者が成仏できず姿をあらわしたもの[1]
死者の霊が現れたもの[2]

幽霊 - Wikipedia
とある。

「死者の霊が現れたもの」を幽霊だとすれば、反魂香で現れる死者の姿も幽霊だ。しかし「死んだ者が成仏できず姿をあらわしたもの」という定義(この方が日本で一般的じゃあるまいか?)によれば、必ずしもそうとはいえなくなる。なぜなら

もとは中国の故事にあるもので、中唐の詩人・白居易の『李夫人詩』によれば、前漢武帝が李夫人を亡くした後に道士に霊薬を整えさせ、玉の釜で煎じて練り、金の炉で焚き上げたところ、煙の中に夫人の姿が見えたという[1]。

反魂香 - Wikipedia
とあるからだ。そもそもこれは道教の話だから「成仏」というものがない


で、道教において死後の世界というのはどういうものなのかと調べてみたら
儒教・道教における死後の世界について一般論と具体論、また、各人(男・女・子ども・善人・悪人・殉教者等... | レファレンス協同データベース
というズバリの記事があり。

『中国思想を考える 未来を開く伝統 中公新書』(金谷治著 中央公論社 1993)
p32-39「儒教の現実主義」に、「人間がどうして生まれてきたか、死んでからどうなるか、人間をとりまく世界はどうかといった問題は、問題として意識されていた形跡はありますが、それを表だって追及する姿勢はまったくありません。」とあり、死後の世界についての教義はなさそう。

と書いてある。一方

道教事典』(野口鉄郎〔ほか〕編 平河出版社 1994)
p227-228〈死生観〉の項
p228「しかししだいに発達した道教では、人間の不老長寿という考え方が強く信ぜられるに至った。特に不老不死の仙人になることが大きな理想の一つとされ、仙人でも天仙、地仙は生きながら仙人であって、実際には死が避けられない。そこで一度死んでもそれは形の上にすぎないという尸解仙が考えられるようになった。」

ともある。この尸解仙という考え方が関わってくるものと思われ。これがまた非常に面白いのだが、とりあえずそれは置いといて、武帝の李夫人は仙女となってどこかに住んでいるのかもしれない。


なお同じ白居易の『長恨歌』は玄宗楊貴妃の物語を題材にしたもので、

楊貴妃の栄華と最期について語った上で、楊貴妃の死後のこととして、玄宗が道士に楊貴妃の魂を求めさせる。道士は魂となり、方々を探し、海上の山に太真という仙女がいるのをつきとめ会いに行く。それこそが楊貴妃であり、道士に小箱とかんざしを二つに分けて片方を託し、伝言を伝えた。玄宗楊貴妃が7月7日、長生殿で、「二人で比翼の鳥、連理の枝になりたい」と誓ったことと、この恨み(思い)は永遠に尽きないだろうということであった(比翼連理の故事)。

楊貴妃 - Wikipedia
という内容。楊貴妃は仙女となって海上の山に住んでいる。この話が発展して尾張の熱田大明神=楊貴妃という説ができたことは前に書いた。


そのように考えると武帝の李夫人は幽霊ではない。もっとも日本においては道教も仏教もごっちゃになっているのであり、必ずしも道教の原理に忠実というわけではないだろう。


※ なお検索したところ、西行法師は「反魂の秘術」を用いたという。
「反魂の秘術」 から 「生活続命の法」 へ ー中世の人造人間説話の変容をめぐってー(PDF)
この「反魂の秘術」とは「骨を素材として人間を造る術」だそうだ。この話がまた超面白そうでさらに話が横道に逸れてしまいそうだが自粛する。


とにかく反魂香が呼び寄せるのは幽霊ではないはずだ。これは仏教と融合したところで同じではなかろうか?そもそも仏教の世界観では人は死ねば転生する(輪廻転生)。この輪廻転生思想も様々なバリエーションがあって厄介だが、日本で一般的なのは以下の考え方だろう。

日本語の日常会話や文学作品などでしばしば用いられている「成仏」という表現は、「さとりを開いて仏陀になること」ではなく、死後に極楽あるいは天国といった安楽な世界に生まれ変わることを指し、「成仏」ができない、ということは、死後もその人の霊魂が現世をさまよっていることを指していることがある。

成仏 - Wikipedia


日本の「幽霊」とはこの「成仏」ができない霊魂のことを指すというのが一般的な考え方だろう。であるなら反魂香で呼び出す死者の霊は必ずしも幽霊を意味しない。


※ なお「成仏」は極楽や天国に転生することを意味するのかもしれないが、地獄に転生する場合もあろう。しかし地獄に転生したものも「幽霊」とは普通呼ばないと思われ。これ重要。