日本の幽霊の手足(その3)

引き続き諏訪春雄氏の論考について
諏訪春雄通信 83


その前にもう一度「幽霊の定義」について。


幽霊とは「死んだ者が成仏できず姿をあらわしたもの」。この定義が絶対というわけではないけれども、日本における一般的な定義はこれでしょう。『境界のRINNE』風に言うならば輪廻の輪に乗っていない霊


その中でも主流なのは、幽霊といえば「うらめしや」というぐらいで恨みを持ってこの世に執着している亡霊でしょう。そういう幽霊のことを怨霊と呼ぶことがある。しかるに歴史をみれば初期には藤原広嗣井上内親王他戸親王早良親王などであり、皇族や上位の貴族が怨霊になっている


怨霊は誰でもなれるものではなくて高貴な者だけがなるものと考えられていたのではないかと俺は思う。彼らは生前においても常人とは比較にならない強力な力を持っていると考えられ、それが非業の死を遂げることによって、さらにパワーアップしたとされたのではなかろうか?


それが時代の経過とともに、まず菅原道真という貴族ではあるけれど藤原氏よりは劣る地位の者が大怨霊となり、また平将門という祖先は天皇ではあるけれど臣籍降下した者が怨霊となった。そしてさらに時代は降り、江戸時代になれば庶民も怨霊になった。いわば怨霊の民主化みたいなことがおこったのではなかろうか。


それを踏まえた上で諏訪春雄氏の論考を見る。諏訪氏は幽霊の話を二つ紹介している。一つは国守の従者の妻の幽霊、もう一つは『今昔物語』が伝える笛の名人の妻の幽霊。どちらも高貴な身分の人物ではなく、庶民といっても良いだろう。そしてどちらも怨霊ではない


庶民が怨霊にならなかった(なれなかった)時代の幽霊と、庶民でも怨霊になる時代の幽霊とを同じ土俵で論じることには問題があるように俺は思う。



そしてもう一つ注意しなければならないのは、先の二つの例のうち前者(出典が書いてない)はまだ成仏していない霊のように思われるが、後者(『今昔物語』)の方では妻は地獄にいることを明言している。だからこの妻は「輪廻の輪」に乗っているのである。


諏訪氏は幽霊が出現する条件として

 第一の条件は幽霊の住む他界が現世と近いところにあると信じられなければならないということです。日本人の他界は、天、地下、山、海の四つがあります。天や海のように遠いところでは、幽霊は出にくい。山、地下などの近いところに他界が存在しているとかんがえられるようにならないと幽霊は出ません。

と最初の方に書いている。すると地獄は現世と近いところにあるということだろうか?


俺にはそうは思えない。地獄は「この世」ではなくて「あの世」であろう。俺の認識では一般的な幽霊はこの世にいるものであり、あの世に行くことができないか、行くことを拒んでいるものである。


もちろん地獄にいる者が現世に現れるという話はある。たとえば出典は忘れたけど「枕元に死んだ親が現れて、自分は地獄で苦しんでいるから供養してくれと言った」みたいな話とか。またお盆には祖先の霊が帰ってくるというのは誰でも知ってる話。つまり「あの世」と「この世」は絶対に往来できないというわけではない。


このような「あの世」からやってくる霊を「幽霊」と言っても間違いではないだろうけれど、しかしそれと「この世」にとどまっている幽霊は分けて考えなければならないのではないか?


というのも諏訪氏は幽霊に足が無い理由として二つあげている。その一つは既に紹介したけれど、もう一つは

 もう一つの重要な理由は、地獄で亡者は鬼卒に足を切られることがあると信じられたことです。中国で成立した経典『十王経』によると、冥土には十王とよばれた十人の裁判官がいて、亡者の罪をさばきます。中有をさまよう亡者たちはこの十王のもとを遍歴して罪の裁きをうけます。

というものだ。しかし地獄で足を切られたということは地獄に転生したということであって、既にこの世にはいないということだ。


で、あるからして地獄からこの世に来た幽霊には足が無い可能性はあるけれど、まだ地獄に行っていない幽霊には足があるはずだ。論理的にはそうなるだろう。


もちろん本来はそうだったのが、意味が失われて地獄に行っていない幽霊の足も無くなったという可能性はある。ただ諏訪氏がそこまで考えているとは思えない。また、もしそうだとすれば地獄から来た幽霊は足が無いだけではなく地獄の苦しみで上半身にもそれが表れているのではないだろうか?しかし円山応挙の絵の女性は穏やかな顔をしている。到底地獄の責め苦でもがいているようには見えない。もし現世に現れているときは生前の姿で現れるのだとすれば足もあるだろう。


というわけで、この説は無理があるんじゃなかろうかと俺は思う。