女子高生貧困問題と麻生ナチスの手口に学んだら発言

今日もこの問題について。こんなにしつこく書くのは、この状況があまりも異常だからだ。


こんな事態は2013年の麻生太郎氏の

憲法は、ある日気づいたら、ワイマール憲法が変わって、ナチス憲法に変わっていたんですよ。だれも気づかないで変わった。あの手口学んだらどうかね。

発言に対する大バッシング以来の異常さだ。


「異常」はその間にもあった。直近では都知事選の間に起きた鳥越俊太郎氏の過去の女性問題に対する左翼の態度。しかしこれは同じ左翼の宇都宮健児からの批判があった。マスコミは一応中立的立場にあった。


しかし、今回は「貧困叩きは許されない」という正論でもって一色に染まっている。問題がどこにあるのか真摯に見ようとする人が出てこない完全な思考停止状態


これはモラル・パニックだ。


何でこんなことが起きたのかは、ある程度推測できる。


麻生発言の場合「憲法が変わってしまう」という言葉がトリガーになった。この場合の「憲法」とは実は憲法改正後の新憲法のことで、麻生氏が「良い憲法」だと考えている新憲法が運用次第で変質してしまうかもしれないという懸念だった。だから麻生氏が「憲法が変わってしまう」ことを望んでいないことは明白なのだ。ところが「憲法が変わってしまう」と聞いて大半の人が思い浮かべるのは「現行憲法が変わってしまう」ということで、麻生氏はナチスの手口に見習って現行憲法を変えようとしていうるのだと受け取ってしまった。そう思い込んでしまったら発言全文が出てこようが、麻生氏が釈明しようが、もうそういう意味に違いないと、ただひたすらに信じ込んで麻生氏を叩く。今でもそこから抜け出せない人は多い。多いというか抜け出せた人はごく僅かだろう。



今回の場合、相対的貧困」という言葉を理解している人がほとんどいなかったというのが発端なのは疑いない。「相対的」「絶対的」という言葉のイメージから、実際の定義や実態などろくに調べもせず、一方は「相対的」なんだから本当の貧困ではないと考え、一方は現在の貧困は「相対的貧困」で彼らは贅沢する余裕があると考え、各々の想像上の「相対的貧困」感の対立となった。母1人子1人の母子家庭の場合年間所得173万以下が相対的貧困だという具体的な数字が浸透してきたのはかなり後になってからだ(現在でもそれすら知らないで議論に参加している人は多数いる)。しかし、そこから先には全く進んでいない。すなわち年所得173万以下の母子家庭の実態とはどういうものなのか数字で示す人というのはほぼ皆無。


相変わらず要約すれば「相対的貧困」は「絶対的貧困」とは違うんだということだけを主張するのみ。しかし絶対的貧困は「食」に困窮する人達のことだ。したがってそれ以外の「相対的貧困」は「食」が足りている人であって衣食住が一応足りている人ではない。その中で日本においては上位に属する一部の人だけがささやかな趣味・娯楽に費やすだけの余裕があるということだ。だから、たとえば良くみかける「スマホを持たない貧困らしい貧困」などは「絶対的貧困」とは全く違う。こういうことを言い出すのは「相対的貧困」を未だにイメージで語っているからだろう。


相対的貧困スマホを持ってはいけないのか?」そんなことはない。スマホは現代の子どもにとっては必需品のようになっている(ちなみに俺は持ってないけど)。持っていなければ仲間外れになるかもしれない。ネットで見かけた話では連絡網にLINEが使われていてスマホを持っていない子どもには学校行事や部活動の連絡が届かないなんてこともあるらしい(学校がおかしいと思うが)。だから子どものことを心配する親は子にスマホを与える。つまり家計に余裕があるからスマホを持っているのではなく、家計に余裕がなくても家計を切り詰めてスマホを持たせる人達が多数いるのだ。ところが「貧困叩き叩き」をしている人達でさえ、そういった実情を知ろうとせず「相対的貧困絶対的貧困と違って余裕があるからスマホを持てるのだ」といった趣旨の主張をする。一応間違ってはいないが、本当に理解しているのか頗る怪しい。


年間所得173万円以下の東京近郊K市の賃貸住宅に住み、Y市の高校に通う女子高校生の娘を持つ母子家庭が必要とする生活費はどれくらいか?といった具体的な検証をする人はほぼ皆無。「1000円ランチを食べてはいけないのか」みたいな、ほとんど想像のみに頼った空論のみを論じる。実際は1000円ランチでないし、それをどこで食べたのかも知らないのだろう。地元で食べるのなら交通費はかからないが東京で食べれば往復2000円の交通費がかかるなんてことも考えないのだろう。


ろくな検証もせずに形而上学的に考えるのみ。思い込みによる空虚な主張。それによって引き起こされるモラル・パニック。こういうことが現代日本で発生する。その危険性を危惧する者はほぼ皆無。いや正確に言えば右翼的な言動に対してはそういうことが言われることは良くある。というか日常的に言われている、実際にはそうでもないものにまで軽率に言われすぎている。ところがそれを危惧している側が現実にやっているということについては無自覚。


だから、俺はこの問題をしつこく書き続ける。