「貧困叩き」というものは確かにある。ただし「貧困であることを叩く」ということと「贅沢する金を進学費用に使うべき」ということとは同レベルのものではないと俺は思うけれど。とにかく「貧困叩き」というものは実際にあった。
しかし、それに対抗するのになぜ「女子高生が相対的貧困なのは間違いない」と断言しなければならないのか?俺にはさっぱり理解できない。
彼女の家が相対的貧困の定義にあてはまらない可能性は高い。もちろん絶対そうだとは言い切れない。それを確認する手段はない。だが、常識的に考えれば非常に疑わしい。百歩譲って事実だったとしても、極めて稀なレアケースであり、相対的貧困であんな豪遊をしていれば普通は生活が破たんする。銚子で娘を殺害した事例(月収13万と15万という情報があるがおそらく手当込で15万なのだろう)は県営住宅という安い家賃なのにも関わらず「世間体で娘の持ち物や服を買ったら、支出が収入を上回るようになった」ために起きた悲劇である。民間の賃貸に住んでいる女子高生の家が本当に相対的貧困ならば、冷房を使わない程度で済むとは思えず、食費を削るなど余程の貧困生活が必要ではなかろうか?だとしたら女子高生はそれを訴え、NHKもそれを報じるはずだと考えるのが自然だが、そうでなかったのは非常に不自然だ。
疑問が出るのは当然であり、それはどう考えても貧困叩きではない。なぜ封じ込めようとしなければならないのか、全く理解に苦しむ。
「女子高生が相対的貧困だと言い切るには疑問が残る」と言ってしまったらウヨクが喜ぶから癪だということだろうか?
彼女が相対的貧困でなかったとしても、6人に1人の子どもが貧困状態にあるという事実が変わるわけではない。
だから、貧困問題には何の影響もない。もし彼女が相対的貧困でないこと、あるいは疑いがあることをもって貧困問題全体を過小評価する人間が出てきたらそれを批判すればいいだけのことだ。
本当に、本当に意味不明だ。
NHKといえば、かつて「奇跡の詩人」というドキュメンタリーを放送したことがある。
重度の脳障害を抱えながら、文字盤を指すことによる執筆活動で、人々の反響をよんでいた少年(以下、全て当時)・日木流奈(ひき るな)をとりあげた番組である。その番組内容について視聴者から批判があり、後にNHKが釈明番組を放送する事態となった。
少年の「奇跡」が疑わしいと言ったからといって、重度の脳障害を叩いたことになるだろうか?
障害者叩きを防ぐためには「少年の奇跡は事実に違いない」と言わなければならないのだろうか?
またNHKは「魂の旋律 音を失った作曲家」というドキュメンタリーを放送したことは記憶に新しい。
⇒魂の旋律 音を失った作曲家 - Wikipedia
聴覚障害者叩きを防ぐために「S氏が作曲したことは事実に違いない」と言わなければならないのだろうか?
そんなことは断じてないのは当然すぎるほど当然なことだ。何でこんな簡単なことが理解できないのだろう?
※ なおNHKは「奇跡の詩人」に関してはウィキペディアによると
「信憑性を否定する事実は無い」と広報し、番組内容に関する謝罪等は一切行わなかった
そうだ。「魂の旋律」に関しては
「結果としてだまされた」「気がつかずに放送したことは視聴者におわびする」と陳謝
したそうだ。