「貧困叩き」批判をしている人は事実を直視しようとしない。
なぜか「1000円ランチ」にこだわり続ける。こんなの確認しようと思えばすぐに確認できること。8/11の食事の値段はレストランのページで確認可能。それとツイッターの写真を見ればいい。「豪快!厚切りポークステーキ(ライス付き)¥1790」「オレンジジュース¥530」「ラブーンのチョコレートムース¥860」これで¥3180。それともう一品メニューに載ってないものが一皿あるがサラダだと思われ「総料理長の気まぐれサラダ ¥800」が「気まぐれ」なので写真と違うとすれば合計¥3980。違う料理だとしても同じくらいの値段であろうと想像できる。
⇒ワンピースレストラン BARATIE(バラティエ)
これがそんなに手間のかかることだろうか?しかも指摘されても確認しようともしない。見たくないのだろう。そして都合の良いように都合の良いようにと解釈して、話を歪曲する。
これは地元のファミレスでランチを食べましたというような話ではない。「1000円ランチ」などと書けば普通はそういうのを連想するだろう。しかし事実は神奈川から東京のお台場まで交通費片道約¥1000往復¥2000かけて行ったものだ。
5月の場合は料理が4皿テーブルの上にあるのがわかる(ツイッターを見れば母親同伴だったことが確認できる)。今のメニュー表ではこの料理の値段はわからないが、一品はビッグハンバーグロコモコ¥1620。ネット情報によれば「骨付きポークスペアリブ 1750円 トンタッタ族の森のピッツァ 1480円 クリームソースショートパスタ 1400円 オレンジジュース 530円 コーラ 470円 デザート 800円程度×2」で¥8850。
彼女が消費したのは当然これだけではない。もちろん、これが母子2人家庭貧困線の月14万4000円(家賃込)で可能な消費なのだというのなら、そう言えばいい。しかしなぜか「1000円ランチ」にこだわり、彼女の消費が「ささやか」だったということにしたいらしい。「貧乏人は貧乏人らしくしなければならないのか?」なんて言いながら、姑息にも彼女を「貧乏人らしく」しようとしている。まるっきりおかしい。
「きこえなーい」といえば「脱貧困ブログ」
⇒『本当の貧困じゃない!』と、叩いているだけじゃ貧困は無くならない。その事をどうか解ってほしい - 脱貧困ブログ
そうではない。相対的貧困母子二人家庭の貧困線173万(月14.4万)は、あと数歩進むと生活保護が必要な状態になるのではなく、既にそれを下回っているのだ。そのことを俺は9/2にツイッターで指摘した。
相対的貧困層の母1人子1人の母子家庭の生活費は生活保護の最低生活費を下回っています。「あと数歩進むと、なってしまう状況」ではなくて既になっているんです。 https://t.co/gNp9ykWAM6
— 国家鮟鱇 (@tonmanaangler) 2016年9月2日
それを筆者の浅野健太郎氏は「いいね」した。にも拘わらず9/5現在訂正も何にもない。この指摘は推理ではなく明白な事実であり、浅野氏がどんな思想を持っていようと「間違い」なのは明らかであり、それをなぜ訂正しようとしないのか理解に苦しむ。
※ 「指導部」の指示がないから訂正できないのか?なんて陰謀論的なことまで考えてしまう。実際おかしい。「1000円ランチ」を食べることを批判すると「絶対的貧困(「ガチの貧困状態」とか、「飢餓寸前になるまで助けるべきではない(毎日新聞)」とか、「でもそれは、絶対的貧困に極めて近い相対的貧困の姿です(みわよしこ)」とか、なぜか「1000円ランチ」を食べないことが「絶対的貧困」になるという奇妙な論理が複数ある。もちろんランチを食べられなくなったからといって、いきなり食うや食わずの絶対的貧困になるはずがない。極めて非論理的な話だ。いくらなんでもこんな奇妙な論理が多発するのはおかしい。「1000円ランチを叩くのは絶対的貧困につながる」という文章を入れろという指示があったのではないか?「絶対的貧困」の変わりに「ガチの貧困状態」とか「飢餓寸前」という言葉を使ったのではないか?「脱貧困ブログ」の場合は「ガチの貧困状態」というのは文脈上は「絶対的貧困」のことではないように受け取れるけれど、
僕は、あえて、絶対的貧困と相対的貧困を言葉に出さないで、絶対的貧困を貧困と呼び、相対的貧困を貧困予備軍と呼んでみたんです。
と書いているから「生活保護が必要なガチの貧困状態」=「絶対的貧困」(もちろんこの理解はおかしい。絶対的貧困でなくても生活保護受給資格はある)だと彼が理解していると解釈でき、やはり「絶対的貧困」のことであろう。
めちゃ陰謀論だが、実際かなり不自然だからそんな疑問まで沸いてしまうのである。
※ そもそも「(1000円)ランチ」批判の大半はランチを食べる金があるのなら学費に使えというものであって、「(1000円)ランチ」を食べる余裕がある家は貧困ではないという批判はあるにはあるけど主流というわけではない。前者の場合は余裕があれば学費に使えという意味だから餓死寸前・絶対的貧困じゃなければ貧困とは認めないという意味ではないのだ。後者だってランチを食べる余裕があれば貧困ではないだから、ランチを食べることはできないけれど衣食住はそれなりに満たされてるのは貧困と認めていないわけではない。それがいきない餓死寸前じゃないと認めないのか?というのはおかしいにも程がある。そういう人もいるには違いないが極めて少数である。ってこんなことは一々説明しなければならないことなんだろうか?あまりにも奇妙な論理である。