「大東亜戦争」という表現はいつから「失言」になったのか?(補足)

昭和40年から昭和57年の、衆参本会議での「大東亜戦争」発言を参考までに。
※ 所属政党名は自分で調べたので間違いがあるかも
※ 他人の発言の引用は略した。



昭和40年11月10日 山田長司(社会)
おりしも大東亜戦争の末期でございまして、食糧事情が非常に逼迫してきたときに、


昭和40年11月10日 片島港(社会)
大東亜戦争が終わり、昭和二十二年、旧外国人登録令によって、


昭和40年12月10日 野上元(社会)
昭和十六年十二月八日、すなわち日本が大東亜戦争に突入した日でありますが、


昭和40年12月10日 永岡光治(社会)
十二月八日は、大東亜戦争の宣戦の布告があった日だ、つまり、日本を破滅に導いた、


昭和40年12月21日 福田赳夫国務大臣
この支那事変、また大東亜戦争と、日本経済がインフレ化をいたしておるのでありまして、


昭和40年12月28日 野間千代三(社会)
あたかも日中戦争から大東亜戦争にかけての膨張に膨張を続けてきた軍事費に


昭和41年03月05日 大原亨(社会)
かつての大東亜戦争の未帰還機にひとしいような赤字公債が、


昭和41年04月15日 辻寛一(自民)
大東亜戦争を憎むのあまり、日清、日露の両戦役すらまるで日本の侵略戦争であったごとく


昭和41年05月14日 門司亮(民社)
この沖縄は、あの大東亜戦争中において軍靴にじゅうりんせられて、


昭和42年03月29日 三宅正一(社会)
自来大東亜戦争敗戦に至るまでの十年間は、


昭和42年08月06日 阿部助哉(社会)
ついに大東亜戦争、敗戦という悲劇になりましたことは、


昭和44年05月30日 楢崎弥之助(社会)
遂に軍部の政治支配、大東亜戦争突入、敗戦、無条件降伏と発展して行ったことは、


昭和44年07月23日 山崎昇(社会)
(略)


昭和44年07月31日 山本伊三郎(社会)
当時は、御存じのように、シナ事変が起こり、大東亜戦争に日本が突入しようという、


昭和45年05月08日 中曽根康弘国務大臣
大東亜戦争の先訓をかみしめよというお話でございますが、


昭和46年11月24日 門司亮(民社)
沖繩が二十六年の間、いな、大東亜戦争において、わが国最大の犠牲となった今日、


昭和47年02月01日 佐藤榮作国務大臣
そうして、過ぐる大東亜戦争は、申すまでもなく、日華、日支の関係、その戦争が基本であります。


昭和47年03月07日 船田中(議長)
(略)


昭和48年12月01日 秋田大助(副議長)
(略)


昭和52年05月27日
(略)


昭和52年07月30日 新谷寅三郎(自民)
その後、昭和二十年、大東亜戦争の敗戦がいよいよ決定的となった情勢下で


昭和53年09月30日 目黒今朝次郎(自民)
一連の反動的な発言が行われていますが、いまだに大東亜戦争の戦後処理が十分でない。


昭和55年05月13日 勝間田清一(社会)
また私自身も、第二次大戦、大東亜戦争の起こる当時の風潮を思い出して、


昭和56年04月10日 長谷川峻(自民)
夜、尾道のホームに立ったら、すでに灯火管制でした。大東亜戦争です。


昭和57年12月08日 飛鳥田一雄(社会)
くしくも、きょう十二月八日は、大東亜戦争勃発のときであります。