⇒はてなブックマーク - 「戦争を知らない子供たち」という曲があったけど………: 極東ブログ
bahrelghazali そもそも「大東亜戦争」を始めた人たちの中には、日清、日露、第一次世界大戦を経験してる人も、かなりいたはずなんだが。 戦争
はてなブックマークにこんなコメント。全くそのとおり。
ところで俺は映画で見たんだけれど「小さいおうち」という小説がある。
当時のタキにとっては「〈戦争〉といったら、イタリーとかエチオピア(第二次エチオピア戦争)とか、スペイン内戦のこと」であり、誰もが東京でオリンピックが開かれると信じていた昭和10年、タキの回想録を読む健史の口を借りて、(「あのころのウキウキした気分を思い出すと楽しくなる」という記述に対して)「十五年戦争中である昭和十年がそんなにウキウキしているわけがない」「おばあちゃんは間違っている」と非難したり、(「南京陥落の戦勝セールが楽しかった」という記述に対して)「南京じゃあ、大虐殺が起こってたのに」と、いかにも後世の若者が言いそうな感想を言わせることで歴史観の違いを際立たせるのに成功している[2]。二・二六事件についても、岡田首相が女中の機転によって助かったというエピソードの方が誇らしげに語られる[3]。「贅沢は敵だ」がスローガンだった時代に、抑圧される暗い日々ではなく、そういう状況にありながらも、時子のために暮らしに彩りを添えようとしたタキの姿は、当時の市井の生きた女たちの姿を想起させる[4]。教科書などで語られる史実は、しょせん誰かの解釈であって、バラバラすぎて描きにくく、簡単にまとめることのできない〈その時代に生きていたひとの感情・事柄〉がタキの回想録から自在に溢れてくる[3]。
戦争があった時代を体験している世代と「戦争を知らない子供」世代の認識の違い。
もちろん個別に見れば、日清戦争や日露戦争の戦地で悲惨な経験をした人や、家族が死んで悲しんだ人もいたには違いないが、その感情を日本国民全体が共有していたわけではないでしょう。そして太平洋戦争においても日本国民全体が悲惨な体験を共有したのはその末期においてでしょう(なおその末期においても空襲の標的とされた都市部と農村部、食糧難で飢えた非農業民とそこそこ食べることのできた農民、あるいは徴兵された人がいる家族といない家族、あるいは戦場になった沖縄の人々、あるいは外地に住んでいた人々などでは違いがあるでしょう)。
さらにいえば、日本人が戦争の被害者としてではなく加害者としての責任を認識しなければならないという主張が大きな声となったのは1980年以降のことでしょう。