「戦争を知らない子供たち」について(その3)

俺はfinalvent氏より年下である。「戦争を知らない子供たち」という歌をいつ知ったのか記憶が定かでない。俺が最初に知った歌が何だったかも定かではない。親は俺が「ブルー・シャトウ」(1967)をよく歌っていたと言うけれど記憶にない。「ブルー・ライト・ヨコハマ」(1968)はなぜか記憶に良く残っている。「戦争を知らない子供たち」(1971)はそれより後だけれども意識して聴くようになったのはだいぶ後になった中学生の頃だったように思う。といっても俺は当時から歌を歌詞で聴くというタイプではなかったので歌詞の意味を深く考えたことはなかった。「戦争を知らない子供たち」というタイトルは刺激的だとは思ったけれど。


戦争を知らない子供たち」をどういう歌だと思ってたかといえば、深くは考えていなかったけれども大人と子供の対立の歌だと思ってた。俺らにとって長髪はごく自然なことだった。西城秀樹野口五郎郷ひろみなどアイドルはみんな長髪だった。しかし大人はそれを認めない。馬鹿げていると思った。大人というのは自分達とは違う存在で理解しあえないのだと思った。でもやがて俺達の時代がくると、そういう感覚だった。まさかそれから数年後には「長髪ダサイ」なんて言われる時代が来ようとは夢にも思ってなかった。
(ただし現実の俺は運動部に所属していて頭髪は五分刈りであったし、それは仕方のないことだと思ってた。なお同じ学校で髪型でバカにされることはないけれど町を歩いていてバカにされたことはあった)
で、俺は高校に入ってやや長髪になったんだけれど、うちの高校は規則がゆるゆるだったので、ハードロックバンドのメンバーような長髪をしている生徒でも特に何も言われていなかった。ただテレビや雑誌を見ると頭髪の規則の厳しい学校のことが紹介されていて馬鹿馬鹿しいと思ってた。そういう意味では長髪は抵抗の象徴ではあったけれど、抵抗のための長髪という意味ではない。


で、それはそれとして「戦争を知らない子供たち」という歌のタイトルが先か、「戦争を知らない子供たち」という言葉が先なのかは知らないけれど、「戦争の悲惨さを知らない子供たち」という意味で俺らの世代が論じられることは確かにあった。


それはまた後ほど。