信親「信」字拝領は本当に天正6年なのか?(その2)

二次史料など信用できないと思われるかもしれないけれども、それでも検討する価値はあるだろう。


『土佐物語』によれば、元親は信長が息子弥三郎の烏帽子親とり実名の字を申し請けたく思い、使者に中島可之助を遣わすことにした。可之助は尾州に致り、元親と姻戚関係にある斎藤内蔵介(利三)を頼んで、明智日向守(光秀)に謁し書簡を差し出した。信長は可之助を召し出し四国干戈のことを尋ね、可之助が詳細に申し上げると信長は笑い「元親は鳥無き島の蝙蝠なり」と言った。可之助は「蓬莱宮のかんてんに候」と答えた。信長は当座即妙の返答使であると大いにほめた。かくてお暇をくだされ、御返簡に左文字御太刀・栗毛の御馬を弥三郎に与えた。


注目すべきは中島可之助は尾張で信長と面会したということ。天正3年の信長居城は岐阜城天正6年は安土城。なお天正3年11/28に信長は家督を信忠に譲ったので以降の岐阜城主は信忠ということになると思われ。


信長公記』によれば天正3年から天正6年に信長が尾張にいたのは

  • 天正3年5/13 熱田 5/14岡崎(長篠合戦)

五月十三日、三州長篠後詰として、信長、同嫡男菅九郎、御馬を出だされ、其の日、熱田に御陣を懸けられ、当社八剣宮廃壊し、正体なきを御覧じ、御造営の儀、御大工岡部又右衛門に仰せ付けられ候ひキ。
『新訂信長公記』(桑田忠親


『土佐物語』(と『信長公記』)を信用すれば、このうちのどれか。ただし朱印状の日付は10月26日でどれも当てはまらない。そこは不審だけれども『土佐物語』でもその場で朱印状をもらったとは書いてないので後日発行されたものと考えることは可能だろう。


で、これは前にも書いたことだけれども、中島可之助の「蓬莱宮のかんてんに候」という答えは注目すべきものだと思われ、これが何を意味するのかは不明ではあるけれども、

熱田神宮』(篠田康雄著 学生社)には,鎌倉末期,比叡山の僧が書いた『渓嵐拾葉集』の中で,「蓬莱宮は熱田の社これなり,楊貴妃は今熱田明神これなり」と紹介されています。
愛知県の徐福伝説

とあり、「蓬莱宮=熱田神宮という説が存在した。なお長宗我部氏も秦氏の末裔を称しており、こちらも蓬莱と繋がる。
鳥無き里の蝙蝠


天正3年から天正6年の間で信長が熱田にいたのは天正3年5月13日以外に無い


次に『長元物語』

一、元親公土佐一ヶ国存分に成や否や、泉州堺の町人商売に下る。宍喰屋と云ふ者を御呼有て仰らるるは、汝尾州へ下り織田信長と云ふ大名へ、此状を指上る才覚仕るにをいては満足ならめ、と仰せられしかば、宍喰屋畏まつて尾州へ下る。(中略)宍喰屋一廉の忠節に思しめす子細は、信長必ず天下の主に成りたまうべしと。元親公御積の子細ありて、仰せ入らるゝ趣は、嫡子弥三郎と申す躮(せがれ)に、御名乗字を拝領仕り度との儀につき、信長公殊の外御満足有りて、則ち信の字を下さる。則ち弥三郎殿の御名乗、信親と申すなり。(以下略)
『四国史料集』

こちらでは中島可之助ではなく泉州堺の町人「宍喰屋」となっているけれども、尾張で信長と面会したという点で一致している(もちろん土佐にいる元親が信長の所在地を知ってるはずはないけれど)。なお「元親公土佐一ヶ国存分」の年は一般に天正3年とされている。


これらは二次史料だ。だから信用できないとすればそれまでだけれども、俺にはどうしても、これらには根拠があるのではないかと思えて仕方ないのである。