知らぬが仏

さて、この事態にどういう態度で臨めばよいのだろうか?
上にも書いたように、俺は河上イチローという人をリアルには知らない。
今でも元オウム信者であるという以上の知識がない。
一概にオウム信者といってもピンからキリまでいるだろうから、そこのところがわからないと判断に困る。とはいえ、元オウム信者であるというのは、それだけで十分にインパクトのある事である。


一方、『絵文録ことのは』というブログは、読み応えのあるブログである。
もちろん全面的に同意できるというものではない。特に「のまネコ」問題に関しては、俺は大いに異論がある(それについて書こうと前々から思っていながらタイミングを逸してしまった)。だが、そういうことは別にこのブログに限ったことではないし、どうでもいいブログであれば異議を唱えようという気も起こらない。


松永氏が元オウム信者であることがわかったからといって、氏がそれ以前に書いた記事の中身が変化するわけではない。
ところが読み手である俺の内心は大いに変化してしまうのである。すると一字一句変化のない同じ記事が、化学変化を起こして大きく変わってしまうのである。もう以前と同じように読むことは不可能である。


それはおかしいと思う人もいるかもしれない。重要なのは誰が書いたということではなくて何を書いたかということであるという人もいるだろう。それは一理ある。


ところが「少なくとも俺にとっては」そうではない。少し詳しく書けば、俺にとっては「書き手とその中身はワンセット」なのである。
これはブログの「実名・匿名」問題に関わることだが、俺の場合、その記事が「匿名であるか実名であるか関係ない」なんてことは決してなく、常に「書き手が何者であるか」ということが記事を評価するときの判断材料になっている。
ただし、一部の人間が主張するように、「実名の方が匿名より優れている」という意味ではない。「匿名の方が実名よりも優れている」場合も多いと思っている。あくまでワンセットで総合的に考えるという意味である。そういう立場の俺にとって、「松永英明」と「元オウム信者松永英明」では、記事の中身が同じであっても、同じではないのである。「元オウム信者」ということを知らなければ、それを元に判断するが、知ってしまった以上は変化してしまうのである。それはおかしいと言われても、俺にとってはおかしくないのである。


ちなみに上に書いた「少なくとも俺にとっては」というのは、
『404 Blog Not Found』の「オウム憎けりゃことのはまで」
http://blog.livedoor.jp/dankogai/archives/50412922.html
にある、『少なくとも私にとっては。』からインスパイヤしたのである。
小飼弾氏は、『その人の素性に関して言えば、「かつてなんだったか」はもうどうでもいいこと』という立場の人である。だが『少なくとも私にとっては。』と断り書きを入れている。その点で抜け目が無い。
『少なくとも私にとっては。』ということは、他の人は違うかもしれないということを暗示しているのである。


ありきたりなことではあるが、人は様々な考えを持っているのである。