今日は何の日 平民乗馬の始

平民には禁止されていた乗馬が許された日。
なんで武士のみに許されていたのだろう?
馬が貴重だったとか、武器であったとか、そんなことが理由だったのだろうか?
まあ、それもあるのかもしれないけど、


学問のすゝめ
http://www.slis.keio.ac.jp/~ueda/gakumon.html

王制一度新たなりしより以来、我日本の政風大いに改まり、外は万国の公法をもって外国に交わり、内は人民に自由独立の趣旨を示し、既に平民へ苗字乗馬を許せしが如きは開闢以来の一美事、士農工商四民の位を一様にするの基ここに定まりたりと言うべきなり。

とあるように、四民平等政策の一環だったことを思えば、元々「特権」としての乗馬であったと考えるべきではないでしょうかね。よく知らないけど。


近代デジタルライブラリー」より。
明治事物起源 石井研堂
http://kindai.ndl.go.jp/index.html

平民乗馬の始
従来、社会の階級制度やかましく、農工商者の、口取り者なき馬に騎して行くこと禁制なりしが、維新後、明治四年四月十九日始めてこの制を撤去し、庶民の騎馬を許したり。されども堅気の商人等には、敢て騎行するものも多からざりしと見えて、この時の〔年表〕に「町人には騎る人見えず」と記せり。
五年版(雑誌)七十号、府下の異風を列挙せし中に、(九)婦人着袴乗馬。(十七)奴隷下駄にて乗馬脛をあらはす、とあり。
七年の(繁盛誌)新風俗目録中に、『平民乗馬』の項あり。かの切腹侠商にて名高き山城屋の見世先に、常に二三の乗馬をつなぎおき、用事ある毎に、小僧丁稚之に跨りて、市内をかけ廻れりといふ。この頃のことなるべし。
五年一月より五六月までの新聞に、車夫、馬丁、召仕、野郎などの、騎馬にて疾駆し、婦人小児に乗りかけたる記事甚だ多し。(雑誌四十五号)にも、『諸官員華士族召死仕の別当と相見えて、大模様の印し半天を着し、美々しき馬に乗り、意気揚々として縦横馳駆憚る無き者多し。其不体裁なる見るに忍びず』など記せり。免許令出でヽ、下層社会俄に乗馬遊者を増し、士人の顰蹙を買ひしなるべし。
五年冬違式註意条例の発布あり。中に、『乗馬して猥りに馳駆し、行人を触倒す者、』『裸体又は袒裼し、或は股脛を露はし、見苦しき容体にて乗馬する者、』の二条あり。これ正に野郎乗馬の盛んなるに出でしと、疑なきなり。


ところで話は少しずれるが、なぜ江戸時代に馬車がなかったのか?


馬車がなかった国(こやなぎ名人の元気配信館)http://www.geocities.jp/koyanagimeijin/2003-1.htm
に説明があるけど、中井竹山(1730〜1804)の時代より前にも馬車はなかったわけで、その理由はわからない。
平民に「武器」である騎馬を認めるのは危険だったから。すなわち支配者側の都合であるかのように言ってる人もいるけど、根拠はあるのだろうか?
それはともかく、中井竹山の提案を幕府は突っぱねたのだが、その理由は、
「馬方、かご屋、飛脚の仕事を守るため。」


果たして、それが本当の理由なのだろうか?
なんて疑問が涌くかもしれないけど、まあ、そのまんま受け取ってもいいんじゃなかろうか。
これは、がちがちの「保守主義」である。


で、これをどう評価するのかということなんだけど、
小泉改革を支持する身でありながら、これについては、けしからんという思いは涌いてこないんだな。これが。「良いこと」(に見える)ものだからって、無条件で何でもかんでも取り入れるって気にはならないんだな。


理由を書くと長くなるんで、省略するけど、このあたりが「保守主義」と「自由主義」の違いなんだろうと思う。