「信長燃ゆ」

文芸評論家・加藤弘一の書評ブログ�:�『信長燃ゆ』 安部龍太郎 (新潮文庫)


安部龍太郎氏の『信長燃ゆ』が単行本で発売されたのが2001年。俺がネットを始めたのも2001年頃。その動機は日本史関係の情報収集であったので、いろいろな掲示板を覗いてみると、この小説、あるいは元ネタである立花京子氏の説を巡っての論議が盛んに行われていた。


この時点での俺はただの歴史好きで、まるっきりの素人であり、近衛前久って誰?ってレベルであったので当初は見てるだけ。濃い論議を眺めているだけで、何の予備知識も持たない俺にとっては大変ためになった。論議に参加している人の知識の豊富さには本当に感服させられた。また歴史作家や研究者の言っていることを鵜呑みにしないで、自分で原史料を調べることの大切さも教わった。


というわけで、まずは基礎知識を身につけなければならないということで、ネットで調べたり、図書館で関係書籍・史料を漁ったりしたのだが、実は、いまだに『信長燃ゆ』も立花京子氏の『信長権力と朝廷』も未読。その前に調べるべきことがいっぱいあると思っていたら、いつの間にか時間が経過してしまった。


そうこうしているうちに、本能寺の変朝廷陰謀説は、最近では有力な説というわけでもなくなってきた。少なくとも当時よりは落ち着いてきた。去年は『信長は謀略で殺されたのか―本能寺の変・謀略説を嗤う』(鈴木眞哉藤本正行 洋泉社)という本まで出版された(ちなみにこれも未読)。


で、俺は論争の最中に、まったく無知なまま参加したせいか、どの陰謀論にも、そして陰謀などなかったという説にも思い入れがない。知りたいのは、議論で提出される「事実」がどの程度信頼できるものなのか?その「事実」をどのように解釈できるのか?他の解釈の可能性はないのか?といったことである。


しかし、これがなかなか困難をきわめることであり、ある説に肩入れしている人にとっては、「事実」は自説を補強するものとして、都合良く解釈されてしまうのである。他の説を採るものからすれば別の解釈ができてしまうのである。さらに俺がもっと問題だと思うのは、ある論者がAと言い、別の論者がBと言ったからといって、真実はAでもBでもない場合があるにもかかわらず、選択肢は二つしかないかのような議論が存在するように見えることである。俺が素人だからそう見えるのであって、実際それ以外の可能性はとても低いのかもしれないが、本当にそれを考えた上で取るに足らないとして排除しているのか、そんな可能性があるということに思いも及ばないからであるのか、それを見分けるのは難しい。


さて、前置きが長くなったが、ここから本題。文芸評論家の加藤弘一氏は、書評で、

しかし、晩年の信長と朝廷の間に対立関係があったことは御所の隣で軍事パレードというべき馬揃を天正九年に二度もおこなったことからいっても、朝廷が国師号をあたえた快川和尚を焼き殺したことからいっても、間違いないと思われる。

と書いている。本当にそうなんだろうか?


「京都馬揃え」は本当に朝廷と対立関係にあったことの証拠になるのか?むしろ信長が熱烈な朝廷支持者であるということの証拠になるのではないか?馬鹿正直に考えればそう考えるのが自然なのだが。しかし、こういうことを言うと、それは表面上のことであって、これが朝廷に対する示威活動であるのは明らかであり、表面だけ見て判断する人間には思考能力が無いのだと言われるかも知れない。確かにそういう可能性もある。というかこういう考え方の方が現在主流であるように見える。ところが、そういう裏読みの思考方法で現在の出来事に対するトンデモ陰謀論を垂れ流している人達がいっぱいいることはネットを少し巡回すればわかることだ。もちろん胡散臭い陰謀論者と、歴史家にも受け入れられている考えを同一視するのは問題があるかもしれない。しかしどうも釈然としない。


もうひとつの、「快川和尚」についても同じ。快川和尚は武田家滅亡の時、信長に敵対した六角義弼らを匿ったことで焼き殺された。ところで、武田氏はこの時点で「朝敵」である。武田氏に頼った六角氏も朝敵と看做してよいだろう。それを匿ったのであるから、快川和尚もまた朝廷に敵対したことになる。それで、何で信長が朝廷と対立したことになるのであろうか?もちろん、朝廷は信長に従うしかなく、本音はそうではなかったことは明らかであり、表面上のことだけを見て判断するのは愚かであるという反論が可能であろう。というかこういう考え方の方が主流なんだろう。しかし、少なくとも表向きはそれで辻褄が合うのである。快川和尚を殺したのは残酷だという考えは、当時すでにあったであろう。朝廷の中にも快く思わない人がいたかもしれない。だが、個人的には反対だが組織の一員としては同意するというケースは普通にあるだろう。それをもって「対立」していたということも可能であるが、そういうことは珍しいことというわけでもなく、歴史上いくらでもあったであろう。快川和尚を殺したことによって、信長が朝廷と対立していたとするには、いつの世にもあるような「対立」ではなく、特にここで言及しなければならないほどの「鋭い対立」でなければ、意味があるとは思えないが、そういう根拠はどれだけあるのだろうか?そう考えると「朝廷が国師号をあたえた快川和尚を焼き殺した」のであるから対立したなんて簡単に言えることではないと思うのだが…


これはメディアリテラシーの問題についても言えることなんだけど、真実に近づくためには、あえて一度は「馬鹿」になってみる必要があるんじゃないかと俺は思うんですね。