日本のカミと聖徳太子怨霊説

八百万の神と呼ばれる日本の神々というのは何かといえば、簡単に言えば自然のことですよね。
人の手で作ることのできないものが神。人ができるのは加工すること。刀や鏡などの人工物も、「火の神」・「土の神」「水の神」などの神々を、人が利用して出来たものであって、人が創造したものではない。だから人工物であっても神。米や麦などの農作物も同じ。要するにありとあらゆるものが神。


自然は人間のために存在しているわけではない。善悪というものもない。太陽は作物を育て人に恵みを与えるが、日照りになれば害を与える。人は害を減らし恵みを増やすために神を祀った。神々に「悪さ(人にとっての)」をしないでほしいと頼み、その代わりに神々を厚く尊崇すると約束したのである。


御霊信仰というのも同じ。不幸な死に方をしたものが怨霊となる。ただし、中には生前に自ら望んで怨霊になったものもあるだろうが、基本的に怨霊は怨霊になりたくってなるというわけでもない。後醍醐天皇は自分が怨霊になる条件を満たしていることを自覚しており、死後怨霊になるのではないかと悩んでいたらしい(結局怨霊になってしまったが)。死者の霊は善悪を超越した力を持っていて、人に益になることもあれば害になることもある。ご先祖様であっても、ちゃんと祀らないと子孫に祟る。不幸な死に方をすると強力なので、その分タタリも恐ろしい。その代わりに手厚く祀れば、利益も大きい。天神さんこと菅原道真が「学問の神」として尊崇されているのが典型例。小物は害も利益も少ないけれど、大物は粗末に扱えないという霊の格差社会


以上は俺の独自な解釈。御霊・怨霊についての解説はいくつか読んだが満足していない。俺はまず普通の霊と「強力な霊」があって、巨大な霊になる条件の一つとして非業の死というものがあり、それが怨霊と呼ばれるという理解。


聖徳太子怨霊説というのがあって、一部では支持されているが、一般的にはトンデモとされている。


だけど、俺から見ると聖徳太子の霊は、怨霊ではないが「強力な霊」。怨霊というのは「強力な霊」の中で非業の死を遂げたものにつけられる呼称だと考えれば、両者が同じように見えるのは当然のことであり、聖徳太子が非業の死という条件がなくても「強力な霊」になったということは、それだけ聖徳太子は特別な人間であったということであろうと考えている。この考えが正しいか間違っているかはわからないけど、この線で検証してみることは無益じゃないと考えている。肯定派にも否定派にも、こういう視点がすっぽり抜けていると思うんですね。