知識人がなぜ影響力を失ったのか

インテリって人を見下す人が多い。まあ、俺なんか知識がないから見下されても仕方ないんだけど、俺よりも遥かに知識のある人のことでも見下している。あの人けっこういいこと言ってるなとか、そこそこいい仕事してるんじゃないのって日頃思っていた人が見下されてるのを見るのは良い気分じゃないですね。


それでも、インテリの言ってることが正しいのなら、人を見下す資格があるんだと納得しなけりゃならないかもしれない。だが、インテリでない身としては、本当に正しいのか、それとも正しくないのか判断できない。大体、インテリ同士が相反することを言っていたら、少なくともどっちかが間違ってるってこと。それだけはいくら知識がなくたってわかる。それなのに、人を見下しているってことは、そのインテリは間違っているくせに、人を馬鹿にしているわけで、人として最低のことをやってるってことですよね。


ただし、間違っていることがわかるのは時間がかかる。もしかしたら生きているうちに結果が出ないかもしれない。それどころか永久に結果がわからないかもしれない。また、間違いだってわかったとしても、そのときには、もうその人は消えちゃっていて、「あの人はいまどこに」みたいになってたりする。さらに一番多いのは、結果が出た頃には、もう昔何言ってたんだか忘れちゃってる。見下された記憶だけは残っているけど、ソースを見つけるのは大変だ。それでも調べて追求したところで、何をいまさらみたいな空しさがある。


インテリが復権するためには、どうすりゃいいのかっていうと、「人を見下すな」と言いたいところだけど、インテリにとっては難しいこと。第一、本人が見下してなかったって、こっちで見下されているように感じることもあるわけだから。これは感情の問題で、どうしようもない。もうひとつは、インテリが過去に言ったことが間違っていたら責任を取ること。人が忘れていても自分から積極的にそうすること。これをちゃんとやれば真剣に耳を傾けるようになるかもしれない。他人は面倒だからそんなことはしない。過去の間違いを追及しないかわりに、現在の言説を聞こうとしなくなる。当っていても間違っていても、一方通行で見下されるだけだったら、見下されることに喜びを感じる人は別として、聞いていても不快感が残るだけ。だが、インテリは逃げ道を作っておくのが得意だから、なかなか間違いを認めようとはしないだろう。


というわけで、インテリの言うことを嬉々として聞く人とは、Mっ気のある人か、話を聞く前から同意することが決まっている身内のインテリかインテリもどきのみとなり、どっかのカルト宗教の教祖と信者の関係と相似形になっていく。


みたいな感じかな。