知識があっても応用力がない

憲法使いの弟子 - おおやにき

つまり天賦人権説が唱えられた頃の「人権」というのは古典的人権であり、具体的にフランス人権宣言(1789)に列挙されているあたりを見ると「自由、所有、安全、圧政への抵抗」(2条)が中心となる。ポイントはこれらがいずれも国家に対する禁止に対応していることで、たとえば所有権に基づいて正当な理由と補償のない収用が禁止されるのだが、それは国家が侵害行為を為してはならない(不作為の義務付け)ということを意味し、積極的な行為を要求していない。逆に言うと、だからこそ前国家的な状態にも適用し得るし、天賦だという主張に意味がある。

これに対し、日本では主として戦後に拡張された部分としての社会権は、その実現に国家の存在や積極的な行為が必要になる。だから国家の存在の方が論理的に先行するとも言えるし、それを危機に陥れるような利用は許されないとする余地もある。誰も国家に対する納税義務を果たさないのに、国家による「健康で文化的な最低限度の生活」供給が実現するわけないでしょ、という話。

(正直、大屋先生の言ってることにも多少疑問が無いわけでもないけれど、俺はド素人だし、俺の方が間違ってる可能性が高いのだろうと思われるのでそこは置いておく)


要は「大きな政府・小さな政府」の話であって、俺がこの前書いたことと基本的な趣旨は同じでしょう(細部で違うかもしれないが、そういうところは大屋氏の方を信用していただいて構わない)。
リベラルの意味がわかっていないニセリベラル - 国家鮟鱇


で、この「大きな政府・小さな政府」あるいは「リベラルには二種類ある」みたいな話は常識だといっていいでしょう。いや知らない人もいるだろうけれど、かなり多くの人が知っている基本中の基本の話だ。いわんやインテリにおいておや。


ところが、天賦人権論の議論の中でこの話が出てこない。もしかしたらあったかのかもしれないけれど、少なくとも俺が見た範囲では見つからない。やたら小難しい話をしているのはいっぱい見かけたが、この初歩の初歩の話が出てこない。一体どうなっているんだと思わずにはいられない。


もちろん「大きな政府・小さな政府」の話を知らないわけが無い。知識はあっても、それと天賦人権の話が結びつかなかったということだろう。ではなぜ結びつけることができなかったのだろうかというと、今の日本人の「知」が相当にイビツなことになっているのではないかという気がしてならない。