「ねね」か「おね」か

俺が豊臣秀吉正室北政所の名前が「ねね」だということを知ったのは、NHK大河ドラマおんな太閤記(1981年)」でのこと。ところが、歴史に詳しい人の間では、北政所自筆書状では「禰」「寧」と記してあり、「ね」「ねい」が正しく、接頭辞の「お」を付けて「おね」と呼ぶべきという説が受け入れられていて、同じ大河ドラマでも「秀吉(1996)」、「利家とまつ(2002)」では「おね」であった。この説がいつ頃からあるのか知らないのだけれど、歴史学者桑田忠親(1902-1987)が唱えたというのだから、最低でも20年前からある説だ。


曖昧な記憶だから、間違っているかもしれないけれど、俺の子供の頃は、豊臣秀吉正室の呼称としては、「北政所」と呼ぶのが一般的であったと思う(今でもそうだけれど)。それが、「おんな太閤記」の影響で、「ねね」と呼ばれるケースが多くなってきて、それが一般に定着していったのだが、一方で、主に歴史マニアが「ね」が正しいという説を支持(信奉)して、そういう風潮を嘆き、折に触れ批判し、それが功を奏してか、「ねね」から「ね(おね)」に変更するという現象が見られたのは、それほど昔のことではない。俺がネットを始めたのが2001年で、その頃、歴史掲示板等を見ても「ねね」と書く人はかなりいた。それに対して、本当は「ね」が正しいとツッコミを入れるというパターンが多く見られた。


ところが、2003年だったか2004年だったか記憶が定かではないが、「Yahoo!掲示板」に、歴史学者の角田文衞が『日本の女性名』という本で、「ね」ではなく「ねね」の方が自然だと主張しているという書き込みがあった。全く初耳だったので非常に驚いた。その後、どういう経緯で、そうなったのか不明だが、再び「ねね」説が有力になってきた。2006年の「功名が辻」で「ねね」が使われた理由は、原作に沿ったということらしいが、実際はその影響もあるのではなかろうか。この動向がタイミング的に「Yahoo!掲示板」の書き込みとシンクロしているのだが、この書き込みがきっかけになったのか、逆に、角田氏の説が注目され出したので、書き込まれたのか、前々から気になっているのだけれど、わからない。


面白いのは、角田氏の主張は80年代にされたものであったのに、それまで(世間一般では)スルーされていたこと。それが、特に新発見があったというわけでもないのに、突然受け入れられだした。秀吉関係のサイトは結構見ていたが、角田説を紹介したものはそれまで見たことがなかったし、学者の書いた本も何冊か読んだが、こういう説があるというようなことは載ってなかった。無視されていたのか、単に知らなかっただけなのかは知らない。角田氏の説は、実に説得力があり、無視すべき奇説には到底見えない。しかも角田氏はアマチュアではなく有名な学者だ。それなのに、最近まで不当な扱いを受けていたのは実に不思議なことだ。マジでその理由が気になる。
(ちなみに俺は『日本の女性名』未読。○○時代についての本とか、誰々についての伝記とかを優先してしまうので、後回しになってしまう。角田氏の説が埋もれてしまったのも、案外そんなところにあったりして)


※「ねね」説及び「ね」説の根拠はウィキペディアが詳しい。
『「ねね」か「ね(おね)」か』高台院(ウィキペディア)


ところで、俺は、「ね」が正しいという説が有力だった時も、どうにも違和感があったから、掲示板等での書き込みで「ね」「おね」は使用しなかったと思う(断定できないのは、もしかしたらはずみで使っちゃったかもしれないから)。だけど、学者が「ね」が正しいと言っていて、それに対する反論も見なかったので、学術的にはそれが正しいのだろうとも思っていた。それでも「ね」を使いたくなかったのは、論理的な理由ではなくて、感覚的なもの。だけど感覚的なものはバカにできないと思っている。もちろん感覚だけで、『「ね」ではなく「ねね」の方が絶対に正しい』なんて主張したら、それが結果的に正しかったとしても、疑似科学になっちゃうけどね。